人物

円仁

Ennin
AD794年 – AD864年(享年70・推定)
日本重要度 3

概要

最澄の弟子。最後の遣唐使で渡って9年半留まり、日記『入唐求法巡礼行記』を残した。帰って天台の座主になる。

所属

日本

関わったできごと(1)

円仁の入唐求法AD838年 · 旅した

本文

円仁は794年、下野国都賀郡(いまの栃木県)に、土地の豪族壬生氏の子として生まれた。平安京への遷都の年である。幼くして父を亡くし、近くの大慈寺の僧広智に学んだ。808年、15歳で比叡山に登り、最澄の弟子となった。最澄は唐から天台の教えを持ち帰り(最澄と空海の入唐)、比叡山を日本の天台宗の本山にしようとしていた。円仁は師のそばで学び、その死後は東北や関東へも布教に歩いた。いまも東北には、円仁が開いたと伝える寺が数多くある。

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最澄が持ち帰った教えには、欠けたところがあった。とりわけ密教は、同じ船で唐に渡った空海のほうが本格的に学んでおり、天台は後れを取っていた。838年、円仁は遣唐使の一行に加わり、唐へ渡った。45歳だった。この遣唐使が、実際に海を渡った最後の遣唐使になる(遣唐使の中止)。円仁の資格は、短期間だけ唐で学ぶ「請益僧」だった。

その日から、円仁は日記をつけ始めた。船は難破しかけながら長江の河口近くに着き、一行は揚州に入った。円仁の願いは、天台宗の本山である天台山に登ることだった。だが唐の朝廷は、短期の僧の巡礼を許さなかった。翌839年、遣唐使は帰国の途につく。円仁はこのまま帰ることができず、山東半島の沿岸で、ひそかに船を降りた。正式な許しの無い滞在で、いわば密入国である。

Manjuvajramandala con 43 divinità - Unknown - Google Cultural Institute
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円仁を助けたのは、唐の沿岸に住む新羅の人々だった。山東半島の赤山には、新羅人の居留地と、新羅の海の実力者張保皐が建てた法華院という寺があった(張保皐の清海鎮)。円仁はここに身を寄せ、張保皐に宛てて助けを求める手紙も書いている。日記には、この寺で新羅の人々が八月十五日に餅を作り、三日三晩歌い踊って祝う様子が書き留められている。昔、渤海との戦いに勝った日を祝うのだと土地の人は説明したという。朝鮮半島の秋夕の祭りを伝える、古い記録の一つである。新羅人の仲介で地元の役所から旅の許可証を得て、天台山の代わりに、北の文殊菩薩の聖地五台山を目指すことにした。

840年、円仁は五台山に登り、天台の高僧に学び、念仏の行を知った。同じ年の夏、都の長安に入った。長安では、大興善寺や青龍寺などで密教の高僧に師事し、灌頂を受け、多くの経典や仏画、曼荼羅を写し集めた。最澄が果たせなかった天台の密教を、円仁はここで手に入れた。

だが唐の政治は急に変わった。道教を信じる皇帝武宗が、仏教を激しく弾圧し始めたのである(会昌の廃仏)。寺は壊され、仏像は溶かされ、20万を超える僧尼が還俗させられたという。外国の僧も例外ではなかった。845年、円仁も還俗を命じられ、髪を伸ばし、俗人の服を着て長安を出た。集めた経典を守りながら、東の海岸へ向かった。途中で日本へ戻る船を探しては断られ、新羅人の世話になりながら、山東と長江の河口のあいだを行き来した。このころ張保皐は本国で暗殺され、新羅人の海の網も揺らいでいた。

会昌の廃仏に関わる図版:Tang Wuzong
会昌の廃仏Wikimedia Commons Wang Qi · Public domain

847年、円仁は新羅の商人の船に乗り、9年半ぶりに日本へ帰った。その間、ほとんど毎日書きつけた日記が『入唐求法巡礼行記』4巻である。寺の行事、役所の手続き、許可証の文面、宿の主人の人柄、品物の値段、天気、皇帝の命令、町の噂。旅の苦労と、庶民の暮らしが同じ調子で書かれている。弾圧が強まると、寺が壊され、経典が焼かれていく様子が、日を追って記される。20世紀になって、アメリカの日本学者ライシャワーが英語に訳し、マルコ・ポーロの旅行記と並べてその価値を世に知らせた。唐の日常を、同じ時代の外国人の目で書いた記録として、他に代えがたい。

帰国した円仁は、比叡山に密教の道場を整え、北の谷の横川に堂を開き、五台山で学んだ念仏の行を伝えた。のちの浄土の教えにつながっていく流れの一つである。854年、天台宗の第3代座主となった。864年、71歳で死んだ。2年後の866年、朝廷は円仁に慈覚大師、師の最澄に伝教大師の号を贈った。日本で僧に「大師」の号が贈られた最初である。

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