『エリュトラー海案内記』
概要
エジプトから紅海を出て、東アフリカとインドへ行く商人のための実用書。港ごとに売れる物と買える物が書かれている。季節風の使い方が広まった時期のもの。
場所
31.20°N 29.92°E · エジプト
本文
紀元前30年、エジプトのプトレマイオス朝が滅び、エジプトはローマの領土になった。アウグストゥスの下で地中海が一つの帝国にまとまると、ローマの富裕層は東方の品々を競って求めるようになる。インドの胡椒、アラビアの乳香と没薬、東アフリカの象牙、中国の絹。それらを運ぶ道の一つが、エジプトから紅海を下ってインド洋に出る海の道だった。ギリシア人はこの紅海からインド洋にかけての海をまとめて「エリュトラー海(赤い海)」と呼んだ。
『エリュトラー海案内記』は、この海を行く商人のための手引き書である。ギリシア語で書かれ、著者の名は無い。文章は飾り気がなく、自分で船に乗って港を回った者でなければ書けない細部が多いので、エジプトに住むギリシア系の商人か船乗りが書いたと考えられている。書かれた年代は、文中に出てくる王の名などから、紀元1世紀の半ばごろとみるのが普通だが、もう少し幅を持たせる説もある。

書き出しは、エジプトの紅海側の港、ミュオス・ホルモスとベレニケである。商人たちはナイル川で荷を上流へ運び、そこから砂漠を駱駝で越えてこれらの港に出た。案内記は、そこから二つの道筋を描く。一つは、紅海を出てアフリカの東岸を南へ下る道。アクスムの外港アドゥリスでは象牙と犀の角が手に入る(アクスムの紅海交易)。さらにアフリカの角を回り、香料の産地を過ぎ、最後はラプタという港に至る。ここが当時の商人の知る南の果てで、いまのタンザニアの辺りと考えられているが、場所は確かめられていない。
もう一つは、アラビア半島の南を回ってインドへ渡る道である。アラビアの南西の港ムザ、乳香の積み出し港カネを経て、インド北西部のバリュガザ(いまのバルーチ)、さらに南西海岸のムジリスやネルキュンダへ向かう。港ごとに、何を持って行けば売れるか、何が買えるかが具体的に書いてある。バリュガザでは、イタリアの葡萄酒、銅や錫、珊瑚、そして王への贈り物として銀の器や歌い手の少年少女、上等の葡萄酒が喜ばれる。帰りには、甘松や象牙、木綿の布、絹の布が手に入る。ムジリスは胡椒の港で、ここには大きな船が大量の金貨を積んで来る、とある。港に入るときの水先案内の頼み方や、浅瀬の危なさ、土地の王の名と人柄まで書かれている。インドのさらに東、ガンジス川の河口から先に、絹を産する「ティーナイ」という大きな都がある、という一節もあり、中国を指すものとみられている(ローマの絹)。
この航海を支えたのが季節風だった。インド洋では、夏には南西から、冬には北東から、強い風が規則正しく吹く。夏に紅海を出て風に乗れば、沿岸をたどらずに外洋をまっすぐ横切ってインドに着き、冬の風で戻ってこられる。往復がほぼ一年で済む。案内記は、この外洋の航路を最初に見つけたのはヒッパロスという船乗りだったと書いている。実際には、アラビアやインドの船乗りはそれより前から季節風を知っていたと考えられ、ギリシア人の側にそれが広まったのがこのころということになる。
案内記に書かれた交易が実際に大きなものだったことは、ほかの記録からも分かる。ギリシアの地理学者ストラボンは、ミュオス・ホルモスから毎年120隻の船がインドへ向かうのを見たと書いた。ローマの博物学者プリニウスは、インドとアラビアと中国が毎年ローマから大金を吸い上げている、と嘆いている。インドの南部ではローマの金貨や銀貨が大量に見つかっており、東海岸のアリカメードゥの遺跡からは、イタリアの葡萄酒を運んだ壺の破片が出ている。ムジリスで交わされた船荷の貸借の契約を書いたパピルスも、エジプトから見つかった。
インドの側の記録にも、彼らは姿を見せる。タミル語の古い詩には、「ヤヴァナ」と呼ばれる西方の人々の美しい大きな船が、金を積んでムジリスにやってきて、胡椒を積んで帰っていく様子が歌われている。ヤヴァナはもとはギリシア人を指す言葉で、エジプトから来るローマ帝国の商人たちのことである。
その後、ローマ帝国が3世紀の混乱に入ると、この交易の担い手は、アクスムやアラビアの商人、ペルシア人へと移っていった。インド洋の交易そのものは途切れることなく続き、のちにはイスラームの商人たちが東アフリカの沿岸からインド、東南アジアまで網を広げていく(キルワとインド洋交易)。『エリュトラー海案内記』は、その長い歴史の最も早い時期を、商人の目で伝える記録である。