ヘロドトス
概要
ペルシア戦争を書き残した「歴史の父」。見聞を集めて因果を語る形を作った。
所属
ギリシア諸ポリス関わったできごと(1)
ヘロドトス『歴史』BC430年頃 · 著者本文
紀元前484年頃、小アジア南西部の港町ハリカルナッソスに生まれた。いまのトルコのボドルムにあたる。ギリシア人と土地のカリア人が混じり合って暮らす町で、当時はペルシア帝国の支配下にあった。親族には叙事詩人パニュアッシスがいた。

町の僭主に逆らう争いに巻き込まれ、エーゲ海のサモス島へ亡命した。僭主を追い出すのに加わったともいわれるが、やがて故郷を離れ、旅を続ける身になる。どこまでが確かな話かは、本人の書いたものから推し量るしかない。
旅の範囲は広い。エジプトではナイルを南へさかのぼり、上流のエレファンティネまで行ったと書いている。フェニキアのテュロスで神殿を訪ね、黒海の北岸ではスキタイ人(スキタイの騎馬遊牧)の暮らしを見聞きした。バビロンの城壁の寸法も書き留めているが、本当に自分で行ったのかは疑う研究者もいる。アテネには長く滞在し、悲劇作家ソフォクレスと親しかったと伝えられる。晩年は、紀元前444年頃にアテネの主導で南イタリアに建てられた植民市トゥリオイに移り住み、そこで死んだとされる。60歳前後だった。
書き残したのが『歴史』である(ヘロドトス『歴史』)。冒頭で、本人が目的を述べている。人間のしたことが時とともに忘れられないように、ギリシア人と異民族の大いなる事績が語られなくなることのないように、とりわけ両者がなぜ争ったのかを明らかにするために、自分の調べたことを示す、と。「調べたこと」にあたるギリシア語ヒストリエーが、のちに歴史を意味する言葉になった。

本の中心は物語「ペルシア戦争」で、マラトンの戦い、テルモピュライの戦い、サラミスの海戦と続く戦いが描かれる。ただし、話はペルシアの遠征から真っすぐには始まらない。最初にギリシア人に害をなしたのはリュディアの王クロイソスだとして、その栄華と没落から語り起こし、ペルシアの勃興、エジプトの風俗、スキタイの国々へと、話はあちこちへ寄り道する。その寄り道が全体の半分以上を占め、当時知られていた世界の案内書にもなっている。
方法は、行って見て、聞くことだった。エジプトの神官に歴代の王の名を挙げさせ、「エジプトはナイルの賜物」だと書いた。聞いた話には、信じるかどうかを分けて書く癖がある。「私はこう聞いたが、信じない」「話としては伝えるが、本当かどうかは読む者が決めればよい」という書き方が随所に出る。

フェニキア人がアフリカを船で一周したという話を伝えたとき、ヘロドトスは「南へ回ると太陽が右手に見えた、という点は信じられない」と書いた。南半球へ出れば実際にそう見える。信じなかったその一言が、かえって話の確かさを示すことになった。
ペルシア側の言い分も書き残している。ペルシアの学者は戦いの始まりをギリシア人の側の女性の略奪に求めている、という話から本を書き起こし、ペルシアの宮廷で王政と民主政と寡頭政のどれがよいかを論じ合う場面まで書いた。勝った側の人間が、負けた側の理屈を残した例になる。クセルクセス(クセルクセス1世)も、ただの悪役としては描かれていない。
ローマのキケロは彼を「歴史の父」と呼んだ。一方で、金を掘るアリの話のような奇譚も多く、ギリシアの著述家プルタルコスは、ヘロドトスの悪意を論じる一書を書いて批判した。次の世代のトゥキュディデスは、面白い話より正確さを重んじると書いて、暗に彼を退けている。こうして「嘘の父」とも呼ばれた。
近年は、記述の一部が考古学で裏づけられてもいる。スキタイの王の葬り方として書かれた、殉死者や馬を伴う大きな墳墓は、黒海の北の草原で実際に見つかっている。大麻の煙を浴びる習俗も、出土品から確かめられた。

神々の働きや運命の話も多く、いまの歴史学とは違う。それでも、人に聞き、確かめ、出来事の原因を問い、それを一つの大きな物語として書く。その形を初めて作ったのはこの人である。後のポリュビオス(ポリュビオス『歴史』)や司馬遷が歩んだ道は、ここから始まっている。