ラズィーヤ
概要
デリー・スルタン朝で唯一の女性の君主。4年で貴族に廃され、殺された。
所属
デリー・スルタン朝関わったできごと(1)
ラズィーヤの即位AD1236年 · 当人本文
1205年頃に生まれたとされる。父のイルトゥトゥミシュは、中央アジアで奴隷として売られたトルコ系の少年から身を起こし、デリーの君主になった人物である。北インドでは1206年、アフガニスタンのゴール朝の将軍だった奴隷出身のアイバクが自立し、デリーを都とするスルタンの国を開いていた(デリー・スルタン朝の成立)。イルトゥトゥミシュはアイバクの娘婿で、1211年に位を継ぎ、モンゴルのチンギス・ハンがインダス川のほとりまで迫った危機もしのいで、国の土台を固めた。

ラズィーヤは父のもとで、宮廷の作法、乗馬、弓、そして政治を学んだ。父が遠征で都を離れたとき、留守を任されたこともあったとされる。1229年、跡継ぎと考えられていた長男が死ぬと、イルトゥトゥミシュは娘を後継に指名した。息子たちは遊興にふけって国を治める器ではないが、娘はどの息子よりも優れている、と父が語ったという話が、後の史書に伝わる。
1236年、イルトゥトゥミシュが死んだ。だが、宮廷のトルコ系の貴族たちは、女性を君主に戴くことを拒み、その息子のルクヌッディーンを立てた。新しい君主は酒と遊びにふけり、政治はその母が握った。母は、夫の後宮の女性たちや、王子の一人を殺させた。各地で反乱が起き、ルクヌッディーンが鎮圧に出て都を空けたとき、ラズィーヤは動いた。
金曜の礼拝の日、彼女は不正を訴える者のしるしである赤い衣をまとって人々の前に現れ、父の遺言を示して、デリーの市民に直接支持を求めたと伝えられる。市民と一部の軍がこれに応じた。ルクヌッディーンの母は捕らえられ、戻ってきたルクヌッディーンも殺された。1236年の暮れ、ラズィーヤはデリーの君主として即位した(ラズィーヤの即位)。称号は、女性形の「スルターナ」ではなく、「スルタン」だった。
即位すると、彼女は女性が顔と体を覆って人前に出ないという慣わしをやめた。男性の上着をまとい、帽子をかぶって宮廷に座り、象に乗って市中を回った。人々の訴えを直接聞き、自ら軍を率いて反乱を鎮めた。父の名と自分の名を刻んだ貨幣を作らせている。学問を奨励し、学校を建てたとも伝えられる。

彼女を脅かしたのは、父の代に仕えたトルコ系の奴隷出身の貴族たちだった。のちに「四十人衆」と呼ばれる彼らは、自分たちの意のままになる君主を求めていた。ラズィーヤは彼らの力を抑えようと、トルコ系ではない者を取り立てた。とくに、アフリカのアビシニア(エチオピア)出身のヤークートを厩舎の長という要職に就けたことが、貴族たちの反発を招いた。女性の君主が身分の低い外国人を寵愛している、という噂は、彼女を追い落とす格好の口実になった。
1240年、北西のバティンダの長官アルトゥーニヤが反乱を起こした。ラズィーヤは自ら討伐に向かったが、その途中で、ヤークートは殺され、彼女は捕らえられた。そのあいだにデリーでは貴族たちが彼女の異母弟を新しい君主に立てた。ラズィーヤは、自分を捕らえたアルトゥーニヤと結婚して味方につけ、二人で兵を率いてデリーへ向かった。だが戦いに敗れ、逃れる途中、1240年10月、カイタルの近くで殺された。30代半ばだった。在位は4年に満たなかった。

彼女の時代を同時代に記録した歴史家ミンハージュ・スィラージュは、こう書いている。彼女は偉大な君主であり、賢く、公正で、気前がよく、学問を保護し、民に正義を行い、戦に通じていた。王に必要な美質をすべて備えていた。だが、男として生まれる運命を授からなかった以上、それらの美質が何の役に立ったろうか、と。彼女を褒めたたえる文章のなかに、その一文がある。
デリーのスルタンの国は、その後300年あまり続き、多くの王朝が入れ替わった。だが、女性が君主の座に就いたのは、ラズィーヤただ一人である。インドでは、彼女は男たちの世界で自分の力で王座についた女性として、物語や映画で繰り返し描かれてきた。デリーの旧市街の路地の奥に、彼女の墓と伝えられる小さな墓がある。