ホレリスのパンチカード
概要
1880年のアメリカの国勢調査は、集計に7年かかった。次の調査が始まるまでに終わらない。技師ハーマン・ホレリスは、鉄道の車掌が切符に乗客の特徴をパンチで刻むのを見て思いついた。人ひとりを1枚のカードにし、穴の位置で属性を表す。カードを機械に通すと、穴を通った針が水銀に触れて回路がつながり、計数器が回る。1890年の調査は、人口の速報が6週間で出た。彼の会社が合併を重ねてIBMになる。国家が人を数えるために、計算機の産業が生まれた。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
ハーマン・ホレリスAD1860年2月29日–AD1929年11月17日 · 作った本文
アメリカ合衆国憲法は、十年ごとに国民を数えることを定めている。下院の議席と直接税を、各州の人口に比例して割り振るためである。最初の調査は1790年に行われ(最初の国勢調査)、連邦の保安官たちが戸別に回って三百九十万人ほどを数えた。この条項には、奴隷を自由人の五分の三として数えるという悪名高い一節も含まれていたが、南北戦争の後、1868年の憲法修正第十四条で改められた。
人口は増え続けた。1850年には二千三百万人、1880年には五千万人を超えた。調べる項目も増えた。1880年の調査では、名前、年齢、性別、人種、出生地と両親の出生地、職業、読み書きができるか、学校に通っているか、障害や病気の有無、婚姻の状況など、多くの事柄が尋ねられた。集計はすべて手作業である。数百人の職員が調査票を一枚ずつ読み、印を付けて数え、集計表に書き写していく。1880年の調査の集計を終えるのに、七年あまりかかった。このままでは、次の調査の集計が終わらないうちに、さらにその次の調査が始まってしまう。

この問題に取り組んだのが、ハーマン・ハーマン・ホレリスである。1860年、ニューヨーク州バッファローで、1848年の革命の後にドイツから渡ってきた移民の家に生まれた。コロンビア大学の鉱山学校を十九歳で卒業し、恩師の勧めで1879年に国勢調査局に入った。そこで彼は、手作業の集計の現場を目の当たりにした。
着想の由来については、いくつかの話が伝わっている。調査局で人口統計を担当していた医師ジョン・ショー・ビリングズが、模様を穴の開いた札で操るジャカード織機のように、穴を使ってこの集計を機械にやらせる方法があるはずだ、と言ったという。穴の開いた札で機械を操るという考えそのものは新しくなく、イギリスのチャールズ・バベッジも、構想したバベッジの階差機関と解析機関に、織機の札を使って命令と数を与えるつもりだった。ただしその機械は完成しなかった。ホレリス自身はこの話を認めつつも、仕組みの中心は自分が考えたものだと主張した。彼が好んで語ったもう一つの話は、西部へ向かう鉄道の旅で車掌の切符を見たというものである。当時の一部の鉄道では、切符の転売を防ぐため、乗客の性別や髪の色、目の色といった特徴を、決められた位置にパンチで穴を開けて記録していた。人ひとりを、穴の並びで表すことができる。

ホレリスの機械は、いくつかの部分からできていた。まず、一人を一枚のカードで表す。はじめは長い紙テープを使ったが、途中の一人分を探し出せないので、一枚ずつのカードに変えた。カードの大きさは当時のドル紙幣とほぼ同じにした。既存の書類箱がそのまま使えるからである。係員は調査票を見ながら、決められた位置に穴を開けていく。
中心となる発明は読み取りの装置だった。カードを台に置き、上から多数のばね付きの針を下ろす。穴のある位置では針がカードを突き抜け、下に置かれた水銀の入った小さな杯に触れて電気の回路がつながる。回路がつながると、対応する計数のダイヤルが電磁石の力で一目盛り進む。同時に、条件に合うカードのときだけ脇の仕分け箱の蓋が開き、カードを種類ごとに分けることもできた。いくつかの穴を組み合わせて条件にすれば、アイルランド生まれで四十代の農業に従事する男性、といった集計も一度にできる。手作業ではほとんど不可能だった組み合わせの集計が、機械なら当たり前にできた。

機械は1887年にボルティモアの死亡統計で試され、ニュージャージー州やニューヨーク市でも使われた。1889年、国勢調査局は三つの方式を比べる試験を行った。ホレリスの方式は、調査票の内容をカードに移す作業でも、それを数える作業でも、ほかの二つの方式を大きく引き離した。とくに集計の速さは、ほかの方式の数分の一の時間だった。
1890年の国勢調査は、この機械で集計された。全国の人口を数えた最初の速報は、およそ六週間で発表された。人口は六千二百万人あまりだった。詳しい報告書を含めた全体の作業にはさらに時間がかかったが、それでも1880年の七年と比べれば劇的な短縮であり、多額の費用が節約されたとされる。もっとも、人口が予想より少なく出たことから、機械を疑う声も上がった。ニューヨークのように、自分の市の人口が少なく数えられたと抗議した都市もあった。

ホレリスは機械を売らず、貸し出した。そしてカードは自分の会社から買わせた。機械を貸してカードを売るこの商売の仕方は、のちに彼の会社を受け継いだ企業の収益の柱となり、1930年代には独占禁止の訴訟の対象にもなる。1896年、彼はタビュレーティング・マシン社を設立した。顧客は外国の政府にも広がり、1897年のロシア帝国最初の国勢調査をはじめ、オーストリアやカナダなどの調査で使われた。やがて鉄道会社、保険会社、電力会社、百貨店が、事務の処理にこの機械を使うようになった。国家が人を数えるための機械が、企業が金と物を数えるための機械になっていった。
1911年、企業の合併を仲介することで知られた実業家チャールズ・フリントが、ホレリスの会社を、時計や計量器、勤怠を記録する機械を作る会社と合わせて一つにした。ホレリスは株と顧問の報酬を受け取り、経営からは退いた。1914年にトマス・ワトソンが経営者として迎えられ、会社は1924年、インターナショナル・ビジネス・マシーンズ、つまりIBMと名を改めた。カードは1928年に八十桁の形に規格化され、その寸法が以後半世紀にわたってデータ処理の基本の単位になった。

パンチカードは二十世紀を通じて、あらゆる集計に使われた。1935年に始まった社会保障制度の膨大な記録の管理、軍の補給、銀行や保険の帳簿、大学の履修登録。1960年代のアメリカでは、カードに印刷された「折り曲げたり、破いたり、汚したりしないでください」という注意書きが、人を番号として扱う官僚制の象徴として、学生運動の合言葉にまでなった。
暗い使われ方もあった。1930年代、ドイツにあった子会社がナチス政権に集計機を貸し出し、カードを納めていた。1933年と1939年のドイツの国勢調査では、宗教や「人種」を含む集計にこの機械が使われ、強制収容所の囚人の登録にもホレリス式のカードが用いられた記録が残っている。2001年、ジャーナリストのエドウィン・ブラックが『IBMとホロコースト』でこの問題を取り上げ、以後、本社がどこまで事情を知っていたのかをめぐって議論が続いている(ホロコースト)。

ホレリス本人は、経営から退いた後、メリーランド州の農場で牛を飼って暮らし、1929年11月に心臓の発作で死去した。六十九歳だった。国を数えるという古代からの営み(ローマのケンスス)が十九世紀に規模の壁にぶつかり、それを越えるために作られた機械が、企業の事務へ、さらに計算機の産業へと続いていった。ENIACのような電子の計算機が現れてからも、データはしばらくのあいだ、ホレリスのカードに穴を開けて入れられていた。