できごと

アヒラムの石棺

Sarcophagus of Ahiram
BC1000年頃
年に諸説あり重要度 3
アヒラムの石棺に関わる図版:Ahiram sarcophag from Biblos XIII-XBC
Ahiram sarcophag from Biblos XIII-XBC Wikimedia Commons Matson Photo Service, photographer, published in 1936 · Public domain

概要

ビブロスの王の石棺の縁に、「この棺を開ける者に、王笏は折れ、玉座は覆る」とフェニキア文字で刻まれている。22文字のアルファベットで書かれた最古の長い文。ギリシア文字もラテン文字も、ここから100年か200年のうちに分かれた。

場所

ビブロス
34.12°N 35.65°E · レバノン

本文

ビブロスは、いまのレバノンの首都ベイルートから海沿いに40キロほど北にある港町である。土地の言葉ではグブラと呼ばれ、いまはジュバイルという。紀元前5000年ごろから人が住み続けている、世界で最も古い町の一つだ。紀元前3000年ごろから、ビブロスはエジプトに、背後の山々に茂るレバノン杉を送った。木の乏しいエジプトでは、神殿の扉にも、ファラオの船にも、ミイラの棺にも、この杉が欲しかった。エジプトの人々は、外洋を行く大きな船を「ビブロス船」と呼んだほどである。

ビブロスはまた、エジプトのパピルスを地中海に送り出す港でもあった。そのため、ギリシア人はパピルスそのものを「ビブロス」と呼び、パピルスに書かれた書物を「ビブリオン」と呼んだ。キリスト教の聖書を指す「バイブル」という言葉は、ここから来ている。一つの港の名が、書物そのものの名になったのである。

レリーフ
レリーフWikimedia Commons O.Mustafin · Public domain

1920年代のはじめ、大雨で崖が崩れ、ビブロスの古い町の下から墓の竪穴が姿を現した。フランスの考古学者ピエール・モンテが調べると、そこは古代の王たちの墓地で、深い竪穴がいくつも掘られていた。その一つの底の部屋から、石灰岩の大きな石棺が見つかった。棺は四頭の獅子の背に載せられ、蓋の上には、二頭の獅子と二人の人物が浮き彫りにされていた。

棺の長い側面には、スフィンクスに支えられた玉座に座る王が、しおれた蓮の花を手にし、食べ物を盛った台の前で、捧げ物を運ぶ人々の行列を迎える姿が刻まれている。短い側面には、胸をはだけ、手で胸を打ち、髪をかきむしって嘆く4人の女たちがいる。エジプトの玉座と蓮、北のシリアやアナトリアの獅子、地中海の様式が混じり合っていて、さまざまな文明の交わる港町らしい作りである。

アヒラムの石棺に刻まれた銘文
アヒラムの石棺に刻まれた銘文Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

だが、この棺を有名にしたのは、絵ではなく文字だった。蓋と棺の縁に沿って、一行の銘文が刻まれていたのである。銘文は、おおよそ次のように読まれている。アヒラムの子イットバアル、ビブロスの王が、この棺を父アヒラムのために作り、永遠の住まいに置いた。もし王たちの中の王、総督たちの中の総督、陣の長がビブロスに攻め上ってこの棺を暴くなら、その王笏は折られ、その王座は覆り、平和はビブロスから逃げ去るであろう。墓を荒らす者への呪いである。

銘文は、右から左へ、22の文字で書かれていた。文字は子音だけを表し、母音は書かない。語と語の間には短い縦の線が入れられている。この22の文字の並びは、のちのヘブライ文字やアラム文字、ギリシア文字と、順番も形もはっきりつながっていた。牛を意味するアレフ、家を意味するベト、らくだのギメル、扉のダレト。それがギリシア語のアルファ、ベータ、ガンマ、デルタになる。アヒラムの石棺の銘文は、このフェニキア文字で書かれた、まとまった長さを持つ文として、知られる限り最も古いものの一つである。

発見時のアヒラムの石棺
発見時のアヒラムの石棺Wikimedia Commons Pierre Montet · Public domain

その年代については議論が続いている。同じ墓の部屋から、エジプトのラムセス2世(ラムセス2世)の名を刻んだ石の器のかけらが出ていたため、発見のころには、紀元前13世紀の棺だと考える人がいた。だが、文字の形を他の銘文と比べる研究からは、銘文は紀元前1000年前後、あるいはもう少しあとに刻まれたとする見方が有力になった。古い時代の棺が、のちの王によって使い直され、そのとき銘文が刻まれたとする説もある。

墓の竪穴の壁には、別の短い落書きも刻まれていた。気をつけよ、この下にお前の災いがある、という警告である。墓泥棒を脅すための言葉だったが、効き目は無かった。墓は古い時代にすでに荒らされ、副葬品の多くは失われていた。重い石棺だけが残った。

アルファベットの源は、さらに古い。紀元前19世紀から18世紀ごろ、エジプトの鉱山で働いたセム系の言葉を話す人々が、エジプトの聖刻文字の形を借りて、自分たちの言葉の最初の音を表す文字を作ったと考えられている。牛の頭の絵が、牛を意味する語の最初の音を表す、というやり方である。この原シナイ文字と呼ばれる文字が、東地中海の沿岸で整理され、22の文字の並びになった(アルファベットの成立)。北のウガリットでは、同じ考え方で楔形の文字によるアルファベットも作られていた(ウガリットの文字)。

ウガリットの文字に関わる図版:22 alphabet
ウガリットの文字Wikimedia Commons Chaos · Public domain

フェニキアの商人たちは、この文字を地中海の各地に運んだ。紀元前9世紀から8世紀ごろ、ギリシア人がこれを取り入れ、自分たちの言葉には要らない子音の文字を母音に当てて、母音も書き表すアルファベットを作った。ヘロドトスは、テーバイを建てたカドモスとともに来たフェニキア人が、ギリシアに文字をもたらしたと書き、その文字はいまもフェニキアの文字と呼ばれている、と記している。ギリシア文字からはラテン文字とキリル文字が生まれ、東ではアラム文字からヘブライ文字やアラビア文字が生まれた。漢字の系統などを除けば、いま世界で使われる文字の多くが、この22の文字にさかのぼる。

ちなみに、旧約聖書でソロモンに杉を送ったティルスの王ヒラム(ヒラムのティルス)の名は、アヒラムを短くした形だと考えられている。別の町の、別の時代の王だが、同じ海岸の王たちは、似た名を名乗っていた。

アヒラムの石棺は、いまベイルートの国立博物館に置かれている。1975年に始まったレバノン内戦のあいだ、博物館は町を東西に分ける前線の上にあった。館の人々は、運べる品を地下に隠し、動かせない石棺などは、周りをコンクリートで固めて砲撃から守った。内戦が終わり、壁が取り除かれたとき、石棺は無事だった。墓泥棒への呪いの言葉を縁に刻んだまま、3千年を生き延びた棺である。

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