プロコピオス『秘史』
概要
皇帝の戦争を公式に書いた歴史家が、同じ皇帝と皇后を悪魔と娼婦として描く本を隠して書いた。1623年にヴァチカンで見つかった。同じ人が同じ時代を二通りに書いた、稀な例になる。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
プロコピオスAD500年頃–AD565年頃 · 著者本文
プロコピオスは、500年ごろパレスティナのカイサリアに生まれた。弁論と法律の教育を受け、527年ごろ、東ローマ帝国の若い将軍ベリサリウスの秘書兼法律顧問になった。それから十数年、プロコピオスはベリサリウスの遠征に従い、東方のペルシアとの戦争、北アフリカのヴァンダル王国の征服、イタリアの東ゴート王国との戦争を、すぐそばで見た。皇帝ユスティニアヌス1世が、かつてのローマ帝国の西半分を取り戻そうとした戦争である(ユスティニアヌスの再征服)。
プロコピオスは、その戦争を書いた。『戦史』8巻は、ペルシア戦争、ヴァンダル戦争、ゴート戦争を、自分の見聞と調べをもとに、古代ギリシアの歴史家トゥキュディデスにならった文体で描いたもので、550年代のはじめに公にされた。532年に都コンスタンティノープルで起きた大暴動(ニカの乱)、542年に都を襲った疫病(ユスティニアヌスの疫病)の生々しい描写も、この書物に含まれている。のちには、ユスティニアヌスが建てたハギア・ソフィア大聖堂(ハギア・ソフィアの完成)や各地の城砦、教会を讃える『建築について』も書いた。どちらも、皇帝の治世を公に称える書物として、宮廷に受け入れられた。

その同じ人が、もう一冊、まったく違う本を書いていた。ギリシア語の題は『アネクドタ』、「公にされないもの」という意味で、のちに『秘史』と呼ばれる。序文でプロコピオスは、これまでの書物では、生きている者たちを恐れて本当のことが書けなかった、ここで隠してきた真実と、その原因を書く、と宣言している。
『秘史』の中のユスティニアヌスは、人の姿をした悪魔だった。夜更けに宮殿の中を歩き回る皇帝の首が消えて、体だけが歩いていたのを見た者がいる、皇帝の顔が形を失って崩れていくのを見た者もいる、とプロコピオスは書いた。皇帝は貪欲で、法を売り、税で属州を搾り取り、無意味な戦争と失政で、数えきれないほどの人々を死なせた。北アフリカでは、征服のあとの混乱で、人がいなくなった土地が何日歩いても続いたという。

皇后テオドラへの攻撃はさらに激しかった。テオドラは、円形競技場で熊の世話をする男の娘に生まれ、若いころは舞台に立つ踊り子だった。プロコピオスはその若き日の暮らしを、口にするのもはばかられる言葉で書き連ねた。皇后になってからのテオドラは、気に入らない者を地下牢に閉じ込め、高官たちをひざまずかせ、皇帝を思いのままに動かす人として描かれる。かつての主人ベリサリウスにも筆は容赦しなかった。ベリサリウスは、養子の若者と通じる妻アントニナに目をつぶる腑抜けで、アントニナはテオドラと組んで夫を操っていた、とされる。
書かれた時期は、本文の記述から550年ごろとみられている。テオドラは548年にすでに死んでいたが、ユスティニアヌスはまだ帝位にあり、その後565年まで生きる。もしこの本が見つかれば、著者の命はなかっただろう。プロコピオスはこれを公にせず、ひそかに残した。皇帝の死後に出すつもりだったとも、出すつもりは初めからなかったともいわれる。プロコピオス自身の死の年も、はっきりとは分かっていない。
本の存在は、10世紀のビザンツの辞典『スーダ』に名前が見えることから知られていた。だが中身は長く失われたと思われていた。1623年、ヴァチカン図書館の写本の中からこれが見つかり、図書館の司書だったニッコロ・アラマンニが、ギリシア語の原文にラテン語の訳を添えて刊行した。あまりの内容に、はじめはプロコピオスの名を騙った偽書ではないかと疑われたが、文体の癖や、ほかの著作と合う細かな事実から、いまでは本人の作と考えられている。18世紀のイギリスの歴史家エドワード・ギボンは、『ローマ帝国衰亡史』で『秘史』を大いに利用しつつ、その悪意の強さにも注意を促した。
なぜ一人の人間が、同じ時代を二通りに書いたのか。役人として仕えながら、公の書物では書けなかった怒りと失望を、ひそかに吐き出したのだとみる人が多い。ただ、『秘史』の悪口のすべてが事実だとは、誰も考えていない。噂や中傷をそのまま書き込んだところも多く、テオドラの若き日の話には、皇后を貶めるための誇張が含まれているとみられる。それでも、公の歴史と秘密の歴史を並べて読むと、華やかな再征服と大聖堂の陰で、重い税と戦争と疫病に苦しんだ帝国の姿が浮かび上がる。同じ人が同じ時代を表と裏から書き残した、歴史の上でもまれな例である。