できごと

イブン・バットゥータの旅

The Travels of Ibn Battuta
AD1325年 – AD1354年
期間を持つできごと重要度 4
イブン・バットゥータの旅に関わる図版:MS Arabe 2291 تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار (cropped)
MS Arabe 2291 تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار (cropped) Wikimedia Commons أبو عبد الله محمد بن جزي ابن بطوطة · Public domain

概要

巡礼のつもりで出た旅が30年、12万kmになった。行く先々でイスラーム法官として職を得られたことが、この距離を可能にしている。

場所

タンジール
35.76°N -5.83°E · モロッコ

関わった人(1)

イブン・バットゥータAD1304年2月24日–AD1369年頃 · 旅人

本文

1325年の6月、モロッコの港町タンジェで、21歳の若者がメッカへの巡礼に出た。法学を学んだ家の出で、旅はせいぜい1年半ほどのつもりだったと思われる。故郷に戻るのは29年後になる。イブン・バットゥータが歩いた距離は、およそ12万kmと見積もられている。『東方見聞録』が描いた旅の、3倍を超える。

これを可能にしたのは、イスラーム法だった。モロッコからインド、東南アジアの港町まで、ムスリムの支配者のいる土地では同じ法の体系が使われている。法学を修めた者は、行った先でカーディー(法官)として職を得られ、学者として客に迎えられる。言葉もアラビア語で通じた。ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)と呼ばれる一つの世界の内側を、彼は渡り歩いていた。

タンジェにある、イブン・バットゥータの墓とされる場所の家屋
タンジェにある、イブン・バットゥータの墓とされる場所の家屋Wikimedia Commons Ruben · Public domain

最初の巡礼は北アフリカの海沿いを東へ進み、カイロ、ダマスクスを経て1326年にメッカに着いた。そこで帰らなかった。イラクとペルシアを回ってイル汗国の宮廷を見、メッカに戻ってしばらく学び、それから紅海を下ってアラビア南部、さらにアフリカ東岸のモガディシュやキルワまで船で行っている。年代の順序には、本人の記述の中にも食い違いがあり、研究者によって並べ方が違う。

次に向かったのはインドだった。アナトリアを抜け、黒海を渡ってキプチャク汗国のウズベク・ハンの陣営に入り、その妃の一行についてコンスタンティノープルまで行ったと書いている。それから中央アジアを南へ越え、1330年代の半ばにデリーに着いた。デリー・スルタン朝の成立のスルタン、ムハンマド・ビン・トゥグルクは、外から来た学者を厚遇することで知られていた。彼はデリーのカーディーに任じられ、大きな俸給を受けながら、8年近くを過ごした。スルタンは気前がよいのと同じくらい気まぐれで残酷でもあり、彼自身、寵を失いかけて身の危険を感じたことを書き残している。

Harîrî Schefer - BNF Ar5847 f.51
イブン・バットゥータWikimedia Commons Yahya ibn Mahmud al-Wasiti · Public domain

1340年代の初め、スルタンは彼を元への使節に選んだ。ところが出航の直前、インド西岸のカリカットで嵐に遭い、贈り物を積んだ船が沈んだ。手ぶらでデリーに戻ることはできない。彼はモルディブへ渡り、そこでもカーディーになって何人もの妻を迎えた。その後セイロンのアダムズ・ピークに登り、ベンガルを経て、スマトラ北部の港から中国へ向かった。泉州に上陸したことはほぼ確かとされる(泉州の海上交易)。ただし、北の大都まで行ったという記述には、疑う声が強い。

帰路の1348年、シリアで黒死病に行き合った。ダマスクスでは一日に2000人を超える死者が出たと書いている。モロッコに戻ると、母がすでに疫病で亡くなっていたことを知る。それでも旅は終わらなかった。アンダルスのグラナダを訪ね、1352年からはサハラを越えてマリ帝国へ行った。マンサ・ムーサの巡礼で知られる王の弟、マンサ・スライマーンの宮廷を見ている。黄金の評判とは裏腹に、王の贈り物の乏しさに不満を漏らしているのが彼らしい。

マンサ・ムーサの巡礼に関わる図版:Catalan Atlas BNF Sheet 6 Mansa Musa (cropped)
マンサ・ムーサの巡礼Wikimedia Commons attributed to Abraham Cresques · Public domain

1354年、マリーン朝のスルタン、アブー・イナーンは、彼に旅の話を書き取らせるよう命じた。筆を執ったのは宮廷の書記イブン・ジュザイイで、作業は翌年ごろまで続いたとされる。こうしてできたのが、いわゆる『リフラ(旅行記)』になる。本人は旅の途中で記録の一部を盗賊に奪われたと書いており、多くは記憶から語られた。

だから、記憶違いがある。年代の矛盾があり、他人の旅行記からの借用もある。書記は文章を整えるにあたって、約170年前のイブン・ジュバイルの巡礼記から、シリアやメッカの描写をかなりの分量で借りている。ヴォルガ中流のブルガールや中国北部のように、実際は行っていないのではないかと指摘される箇所もある。同時代のモロッコの宮廷でも、話が大きすぎると疑う者がいたことを、イブン・ハルドゥーンが書き留めている。残った文章は、旅人と書記の合作と読むのがよい。

タンジールの風景
タンジールの風景Wikimedia Commons Mike McBey · CC BY 2.0

それでも、14世紀のイスラーム世界の広がりを、一人の目で端から端まで通して見られる史料は、ほかにない。マリの宮廷の儀礼、モルディブの女性たち、デリーのスルタンの宴、元の港の船。多くの土地について、彼の記述はその時代のほとんど唯一の証言になっている。この本は長くイスラーム世界の中で写本として伝わり、19世紀にフランスで全訳が出てから、世界に知られるようになった。

動画(1)

075 陸と海のネットワーク 世界史20話プロジェクト第08話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第75講「陸と海のネットワーク」

出典(1)

イブン・バットゥータ 『大旅行記(リフラ)』全篇

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