イブン・バットゥータの旅

概要
巡礼のつもりで出た旅が30年、12万kmになった。行く先々でイスラーム法官として職を得られたことが、この距離を可能にしている。
場所
35.76°N -5.83°E · モロッコ
関わった人(1)
イブン・バットゥータAD1304年2月24日–AD1369年頃 · 旅人本文
1325年の6月、モロッコの港町タンジェで、21歳の若者がメッカへの巡礼に出た。法学を学んだ家の出で、旅はせいぜい1年半ほどのつもりだったと思われる。故郷に戻るのは29年後になる。イブン・バットゥータが歩いた距離は、およそ12万kmと見積もられている。『東方見聞録』が描いた旅の、3倍を超える。
これを可能にしたのは、イスラーム法だった。モロッコからインド、東南アジアの港町まで、ムスリムの支配者のいる土地では同じ法の体系が使われている。法学を修めた者は、行った先でカーディー(法官)として職を得られ、学者として客に迎えられる。言葉もアラビア語で通じた。ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)と呼ばれる一つの世界の内側を、彼は渡り歩いていた。

最初の巡礼は北アフリカの海沿いを東へ進み、カイロ、ダマスクスを経て1326年にメッカに着いた。そこで帰らなかった。イラクとペルシアを回ってイル汗国の宮廷を見、メッカに戻ってしばらく学び、それから紅海を下ってアラビア南部、さらにアフリカ東岸のモガディシュやキルワまで船で行っている。年代の順序には、本人の記述の中にも食い違いがあり、研究者によって並べ方が違う。
次に向かったのはインドだった。アナトリアを抜け、黒海を渡ってキプチャク汗国のウズベク・ハンの陣営に入り、その妃の一行についてコンスタンティノープルまで行ったと書いている。それから中央アジアを南へ越え、1330年代の半ばにデリーに着いた。デリー・スルタン朝の成立のスルタン、ムハンマド・ビン・トゥグルクは、外から来た学者を厚遇することで知られていた。彼はデリーのカーディーに任じられ、大きな俸給を受けながら、8年近くを過ごした。スルタンは気前がよいのと同じくらい気まぐれで残酷でもあり、彼自身、寵を失いかけて身の危険を感じたことを書き残している。

1340年代の初め、スルタンは彼を元への使節に選んだ。ところが出航の直前、インド西岸のカリカットで嵐に遭い、贈り物を積んだ船が沈んだ。手ぶらでデリーに戻ることはできない。彼はモルディブへ渡り、そこでもカーディーになって何人もの妻を迎えた。その後セイロンのアダムズ・ピークに登り、ベンガルを経て、スマトラ北部の港から中国へ向かった。泉州に上陸したことはほぼ確かとされる(泉州の海上交易)。ただし、北の大都まで行ったという記述には、疑う声が強い。
帰路の1348年、シリアで黒死病に行き合った。ダマスクスでは一日に2000人を超える死者が出たと書いている。モロッコに戻ると、母がすでに疫病で亡くなっていたことを知る。それでも旅は終わらなかった。アンダルスのグラナダを訪ね、1352年からはサハラを越えてマリ帝国へ行った。マンサ・ムーサの巡礼で知られる王の弟、マンサ・スライマーンの宮廷を見ている。黄金の評判とは裏腹に、王の贈り物の乏しさに不満を漏らしているのが彼らしい。

1354年、マリーン朝のスルタン、アブー・イナーンは、彼に旅の話を書き取らせるよう命じた。筆を執ったのは宮廷の書記イブン・ジュザイイで、作業は翌年ごろまで続いたとされる。こうしてできたのが、いわゆる『リフラ(旅行記)』になる。本人は旅の途中で記録の一部を盗賊に奪われたと書いており、多くは記憶から語られた。
だから、記憶違いがある。年代の矛盾があり、他人の旅行記からの借用もある。書記は文章を整えるにあたって、約170年前のイブン・ジュバイルの巡礼記から、シリアやメッカの描写をかなりの分量で借りている。ヴォルガ中流のブルガールや中国北部のように、実際は行っていないのではないかと指摘される箇所もある。同時代のモロッコの宮廷でも、話が大きすぎると疑う者がいたことを、イブン・ハルドゥーンが書き留めている。残った文章は、旅人と書記の合作と読むのがよい。

それでも、14世紀のイスラーム世界の広がりを、一人の目で端から端まで通して見られる史料は、ほかにない。マリの宮廷の儀礼、モルディブの女性たち、デリーのスルタンの宴、元の港の船。多くの土地について、彼の記述はその時代のほとんど唯一の証言になっている。この本は長くイスラーム世界の中で写本として伝わり、19世紀にフランスで全訳が出てから、世界に知られるようになった。