人物

ウサーマ・イブン・ムンキズ

Usama ibn Munqidh
AD1095年7月4日 – AD1188年(享年93・推定)
シャイザル(シリア)重要度 3

概要

十字軍と戦い、十字軍と友人にもなったシリアの武人。90歳を過ぎて書いた回想録が、フランク人を内側から見た数少ない記録になっている。

本文

ウサーマ・イブン・ムンキズは1095年7月4日、シリア北部のシャイザルの城に生まれた。シャイザルはオロンテス川の岩山に建つ城で、アラブのムンキズ家が代々治めていた。同じ年の11月、ローマ教皇がクレルモンで十字軍を呼びかけている(十字軍の呼びかけ)。ウサーマが4歳になる1099年には、十字軍がエルサレムを奪った(第1回十字軍のエルサレム占領)。彼の一生は、十字軍の国々がシリアの海岸に根を下ろし、やがて押し戻されていく百年と、ほぼ重なっている。

十字軍の呼びかけに関わる図版:Passages d'outremer Fr5594, fol. 19r, Concile de Clermont
十字軍の呼びかけWikimedia Commons Jean Colombe · Public domain

ウサーマは城主の甥として、武芸と狩猟、そしてアラビア語の詩と学問を叩き込まれた。少年のころから、隣り合うフランク人(十字軍の人びと)の領地との小競り合いに加わった。ライオンを狩り、敵の騎士と槍を交えた思い出を、のちに数多く書き残している。

しかし、城主の叔父との仲は良くなかった。武勇を重ねる甥を、叔父は自分の子らの地位を脅かす者と見るようになった。1130年代、ウサーマはシャイザルを離れることになる。以後、彼の生涯は仕える先を転々とする旅になった。北イラクのモスルのザンギー、ダマスクスの宰相ウナル、カイロのファーティマ朝の宮廷(ファーティマ朝の成立)、ふたたびダマスクスのヌール・アッディーン、アナトリア東部の小さな王朝。仕える相手が変わるたび、昨日の敵と今日は手を組んだ。

ウサーマが埋葬されたダマスカスのカシオン山
ウサーマが埋葬されたダマスカスのカシオン山Wikimedia Commons Aziz1005 · Public domain

ダマスクスにいたころ、ウサーマは外交の使者として何度もエルサレム王国を訪れた。ダマスクスは、北で勢力を伸ばすザンギーに対抗するため、フランク人と手を結んでいたからである。エルサレムの王とも顔を合わせ、テンプル騎士団の騎士たちとも親しくなった。

カイロでは、宮廷の陰謀に巻き込まれた。1154年、カリフが暗殺される事件が起き、ウサーマはその首謀者たちと近かったため、エジプトを逃れることになる。家族と財産は船でシリアへ送ったが、エルサレムの王が約束したはずの安全は守られず、船はフランク人に襲われて財産を奪われた。とりわけ4000冊の蔵書を失ったことを、ウサーマは終生嘆いていた。1157年には大地震でシャイザルの城が崩れ、祝いの席に集まっていたムンキズ家の人びとのほとんどが死んだ。

晩年、ウサーマはサラディンに招かれてダマスクスに住み、詩人として、また古老として敬われた。1187年、サラディンがエルサレムを取り戻したのを(サラディンのエルサレム奪還)、90歳を過ぎたウサーマは見届けている。翌1188年、ダマスクスで死んだ。

ウサーマが80代の終わりから90歳ごろに書いた回想録が、『省察の書』である。運命は神の手にあり、人の力ではどうにもならない、という教えを、自分の長い人生の出来事で示す、という体裁の本だ。戦い、狩り、旅、家族の死が語られるなかに、フランク人についての観察が数多く挟まっている。

医術の話はよく引かれる。フランク人の領主が、病人の手当てのためにウサーマの叔父のもとからアラブ人の医者を呼んだ。医者が脚にできものの出た騎士に湿布をあてて治しかけていると、フランク人の医者が来て、片脚で生きるのと両脚で死ぬのとどちらがよいかと問い、斧で脚を切り落とさせた。騎士はその場で死んだ。肺を病んだ女については、悪魔が頭に入ったとして頭に十字の切り込みを入れ、塩をすり込ませて殺してしまった。ウサーマはこう書いて、フランク人の医術を嘲った。ただ、フランク人の治療が効いた例も並べて書いている。

別の場面もある。エルサレムのアル=アクサーの建物はテンプル騎士団が使っていたが、ウサーマが訪れると、友人の騎士たちが脇の小さな礼拝所を彼の礼拝のために空けてくれた。ところが祈っていると、一人のフランク人が飛び込んできて、彼の顔を無理に東へ向け、こう祈るのだと言った。騎士たちが男を引き離し、あれは最近やって来たばかりの者で、こちらの流儀を知らないのです、と詫びたという。長く住むフランク人と、来たばかりのフランク人は違う、とウサーマは書いた。

ほかにも、フランク人の騎士が、ウサーマの14歳の息子を自分の国へ連れて帰り、騎士の作法を学ばせたいと申し出た話がある。ウサーマは、息子を捕虜になるよりひどい目に遭わせるわけにはいかないと思いつつ、角が立たないよう、祖母が息子を手放さないから、と言って断った。決闘や神明裁判による裁き、妻が他の男と話していても怒らない夫など、フランク人の風習への驚きも細かく記されている。

侮蔑と友情が同じ本の中にある。だからこの記録は貴重になった。十字軍の時代を、ムスリムの一個人がどう見ていたかを伝える史料として、ウサーマの回想録はほかに代えがたい。写本はスペインのエスコリアル修道院の図書館にただ一つ残り、19世紀の後半に見出されて世に知られた。いまは十字軍を「アラブの側から」読む本には、必ずと言っていいほどこの人の名が出てくる(物語「『アラブが見た十字軍』で読む十字軍」)。

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