マルクス・アウレリウス
概要
五賢帝の最後。北方の戦陣で自らへの覚え書き『自省録』を書いた。
所属
ローマ帝国関わったできごと(2)
マルコマンニ戦争AD166年 · 皇帝『自省録』AD170年頃 · 著者本文
121年4月26日、ローマに生まれた。家はスペインに縁のある名門で、もとの名はマルクス・アンニウス・ウェルス。幼くして父を亡くし、祖父のもとで育った。皇帝ハドリアヌスは、まじめな少年をかわいがり、その名をもじって「最も誠実な者」と呼んだと伝えられる。

138年、死期の迫ったハドリアヌスは、アントニヌス・ピウスを後継に指名した。その条件として、アントニヌスに、16歳のマルクスと、もう一人の少年ルキウスを養子に迎えさせた。マルクスはこうして次の次の皇帝として育てられる。のちにアントニヌスの娘ファウスティナと結婚し、多くの子をもうけたが、その多くは幼くして死んだ。
五賢帝の最後で、養子相続の最後にもなる。若い頃からストア派の哲学を学んだ。弁論術の教師フロントとの往復書簡が残っていて、若いマルクスが師に甘え、ぶどうの収穫の様子を書き送る姿が見える。だが彼は弁論より哲学を選んだ。師の一人ルスティクスから、奴隷出身の哲学者エピクテトスの講義録を贈られたことを、『自省録』の中で感謝とともに記している。

161年、アントニヌスが死ぬと、マルクスは義弟ルキウス・ウェルスを共同の皇帝にした。皇帝が二人並び立つのは、ローマで初めてのことだった。即位してまもなく、東のパルティアがアルメニアに攻め込み、戦争になる。
皇帝としての生涯の大半は、北方のゲルマン諸族との戦争と、帝国を襲った疫病への対処に費やされている。東方から戻った軍が持ち帰ったとされるアントニヌスの疫病は、165年頃から帝国中に広がった。天然痘だったと考える研究者が多く、死者の数は分からないが、人口の1割前後とする推計もある。兵も農民も税を払う者も減った。

その頃、ドナウ川の北のマルコマンニ族、クァディ族らが国境を越えて攻め込み、イタリアの北東部にまで達した。マルコマンニ戦争は、死ぬまでほぼ途切れずに続く。戦費を作るため、宮殿の宝物や皇后の衣装を競売にかけたという話も伝わる。169年、共同の皇帝ルキウスが病死し、以後は一人で戦い続けた。
『自省録』は陣中で書かれた。『自省録』と呼ばれる12巻の覚え書きで、本人がつけた題は「自分自身へ」の意味だったとされる。ラテン語ではなく、哲学の言葉であるギリシア語で書かれている。巻の終わりに、クァディ族の地のグラン川のほとりにて、と書き添えられた箇所がある。

人に見せる文章ではないので、弱音も、繰り返しも、そのまま残っている。腹を立てるなと自分に言い聞かせる箇所が何度も出てくる。朝、起きるのがつらいとき、自分は人間の仕事をするために起きるのだと考えよ、という一節もある。今日もおせっかいな者、恩知らずな者、横柄な者に会うだろうと、朝のうちに自分に言っておけ、とも書く。第1巻は、家族や師から何を学んだかを一人ずつ挙げて感謝する文章で始まる。
175年、東方の総督アウィディウス・カッシウスが、マルクスが死んだという誤った噂を信じて皇帝を名乗った。反乱は3か月ほどで、カッシウスが部下に殺されて終わった。マルクスは、反乱に加わった者の手紙を読まずに焼かせたと、歴史家カッシウス・ディオは伝える。誰が裏切ったかを知って、人を憎むことを避けたのだという。

哲学者として非戦を説きながら、戦い続けた。ローマにある記念柱には、ゲルマン人との戦いの場面が刻まれ、捕虜の扱いの厳しさも描かれている。奴隷制も剣闘士競技も、彼の治世に廃止されていない。177年にはガリアのリヨンで、キリスト教徒が群衆に捕らえられ、多くが処刑された。皇帝が直接命じたものではないが、総督の問い合わせに、信仰を捨てない者は罰せよと答えたとされる。考えていたことと、やっていたことの距離が読める。
177年、実子のコンモドゥスを共同の皇帝にした。180年3月17日、ドナウ川の前線の陣営で病に倒れて死んだ。58歳。死んだ場所は、いまのウィーンとも、セルビアのスレムスカ・ミトロヴィツァとも伝わる。

実子コンモドゥスに継がせた。その選択が、次の世紀の混乱の入口になったという評価がある。コンモドゥスは政治を顧みず、剣闘士として闘技場に立ち、192年に暗殺された(コンモドゥスの暗殺と五皇帝の年)。カッシウス・ディオは、マルクスの死をもって、歴史は黄金の王国から鉄と錆の王国へ下った、と書いている。ただ、それまでの五賢帝は実の息子を持たなかったから養子を選んだのであって、マルクスが原則を破ったとは言いきれない、という見方もある。
ローマのカピトリーノの丘に立つ彼の騎馬像は、古代から残った数少ない青銅の騎馬像である。中世には、キリスト教を公認したコンスタンティヌスの像だと思われたために、溶かされずに済んだという。『自省録』は写本で伝わり、いまも多くの言葉に訳されて読まれている。権力の頂点にいた人が、毎日、自分を戒める言葉を書きつけていた。その記録が、二千年近く後の読者に届いている。