人物

ハトシェプスト

Hatshepsut
? – BC1458年頃
エジプト新王国重要度 3

概要

女性でファラオを名乗り、20年治めた。死後、その名は記念物から削り取られている。

所属

エジプト新王国

関わったできごと(1)

ハトシェプストの治世BC1479年 · 当人

本文

ハトシェプストは、エジプト新王国の第18王朝の王トトメス1世と、その正妃イアフメスの娘として生まれた。生まれた年は分かっていない。第18王朝は、北から入り込んだ異民族ヒクソスの支配(ヒクソスのエジプト支配)を打ち破って始まった王朝で、彼女が生まれたころには、エジプトの軍は南のヌビアから北のシリアまで進み、国は豊かさと自信に満ちていた。

ハトシェプスト像(メトロポリタン美術館)
ハトシェプスト像(メトロポリタン美術館)Wikimedia Commons CC0

父の死後、彼女は異母兄にあたるトトメス2世の妃になった。王家では、王の血を濃く保つために兄弟姉妹の結婚が珍しくなかった。二人の間には娘ネフェルウラーが生まれたが、王子は生まれなかった。トトメス2世は数年から十数年の短い治世で、紀元前1479年ごろに死んだ。王位を継いだのは、側室イシスが産んだ幼い男の子で、トトメス3世と呼ばれる。ハトシェプストにとっては甥であり、義理の息子でもあった。

はじめ、ハトシェプストは幼い王の摂政として政務を執った。この時期の記念物では、彼女は王妃の称号で、幼い王の後ろに立つ姿で表されている。ところが、治世の2年目から7年目までの間のどこかで、彼女は自らファラオとして即位した。トトメス3世は退けられたわけではなく、二人が共同の王として並ぶ形が取られたが、実際の権力はハトシェプストが握った。

彼女が名乗ったのは「女王」ではなく、ファラオという地位そのものだった。エジプトの王の称号は、男性の神ホルスの化身として作られていた。王の像は、裸の上半身、王の頭巾、付け髭という決まった姿で表される。女性の王の姿を表す型は、無かったのである。初めのころの彼女の像には女性らしい体つきのものもあるが、治世が進むにつれて、男性の王と同じ姿で表されるようになっていく。文字の上では女性形の語尾を残しながら、像は付け髭の王になった。

即位を正当化するために、彼女は神の物語を使った。テーベの西岸、ディール・エル=バハリの断崖のふもとに建てた葬祭殿の壁には、主神アメンが父トトメス1世の姿をとって母イアフメスのもとを訪れ、そこからハトシェプストが生まれた、という誕生の物語が刻まれている。自分は神の子であり、父から後継に指名された、という主張である。段々に重なる柱廊を持つこの葬祭殿は、古代エジプトの建築の傑作の一つとされる。

建物の造営を取り仕切ったのは、側近のセンエンムトだった。身分の高くない家の出ながら、王の娘ネフェルウラーの養育係となり、数多くの官職を兼ねた。娘を抱いた姿のセンエンムトの像がいくつも残る。二人の関係については昔から憶測が多いが、確かなことは分からない。

約20年の治世(ハトシェプストの治世)は、大きな戦争よりも、建設と交易で知られる。カルナックのアメン神殿には、巨大なオベリスクを建てた。そのうちの一本はいまも立っており、高さ約29メートルある。とくに有名なのが、南方の国プントへの遠征である。プントは香料や黄金を産する土地で、いまのエリトリアからソマリアのあたりとされる。船団は紅海を下り、没薬(ミルラ)の木、乳香、黄金、黒檀、象牙、ヒヒなどを積んで帰ってきた。その様子は葬祭殿の壁に、プントの家々や、太った体つきのプントの女王の姿まで細かく彫られている。持ち帰った没薬の木を植えたとされる穴の跡が、葬祭殿の前にいまも残る。

紀元前1458年ごろ、ハトシェプストは死んだ。その後、トトメス3世が単独で王位につき、シリアへ十数回の遠征を重ねて、エジプトの勢力を最大に広げる。

そして、彼女の死から20年ほどたったころ、ハトシェプストの名と姿が、記念物から削り取られ始めた。像は壊されて石切り場に捨てられ、壁の浮き彫りの彼女の姿は削られ、オベリスクは石の壁で囲まれた。かつては、長く押さえつけられていたトトメス3世の恨みによるものと考えられた。いまでは、削り取りが彼女の死後かなり経ってから、王としての姿に絞って行われていることから、女性が王位に就いたという前例を王統の記録から消し、トトメス3世の子への継承を確かなものにするための措置だったとみる見方が有力である。ただ、本当の理由は分かっていない。

いずれにせよ、その結果、彼女の名はのちのエジプトの王の一覧から消えた。19世紀に碑文の解読が進み、削られた跡の下から名前が読み取られて、ようやく一人の女性のファラオが姿を現した。王家の谷にある彼女の墓は早くから知られていたが、中は空だった。2007年、エジプトの考古当局は、別の墓から見つかっていた身元不明の女性のミイラを、歯の一本の照合などからハトシェプストと発表した。この同定には慎重な意見もある。

古代エジプトで王位に就いた女性は、彼女の前にも後にもいる。だが、20年という長さと、残した建造物の多さで、ハトシェプストはその中で最も大きな存在である。後の時代のアクエンアテンやクレオパトラ7世と並び、エジプトの王の中で広く名を知られる一人になった。

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