できごと

『漢書』の完成

Book of Han
AD111年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢サカ族の王国ヒンドゥーの諸王国スーレーン家の王国クシャーナ朝サータヴァーハナ朝弥生カリンガ高句麗南匈奴アイヌYueban新羅シンハラAD111年洛陽
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概要

班固が父の仕事を継いで20年書き、獄で死んだ。妹の班昭が「天文志」と「八表」を書き足して完成させた。前漢一代の歴史。『史記』の通史に対して、一つの王朝を一冊に。以後の正史は、すべてこの形になる。

場所

洛陽
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省

関わった人(1)

班昭AD45年頃–AD117年頃 · 完成させた

本文

司馬遷の『史記』は、伝説の黄帝から、司馬遷自身が仕えた前漢の武帝の時代までを書いた通史である(『史記』の完成)。武帝の治世の途中で筆は止まり、その後の前漢の歴史を書き継ごうとする者が何人も現れた。だが、どれも『史記』に見合う出来ではなかった。後漢の初め、そうした続編の不出来を嘆いて自ら筆を執ったのが、班彪である。彼は『史記』の後を継ぐ「後伝」を数十篇書いたが、54年に世を去った。

息子の班固は、父の仕事を引き継いだ。ところが紀元62年頃、班固が私的に国の歴史を書き改めている、と朝廷に訴える者が出た。国史は朝廷のもので、私人が勝手に書くことは許されない。班固は捕らえられ、故郷の家の原稿は押収された。弟の班超は都の洛陽へ急ぎ、兄の書いているのは漢の徳を讃えるためのものだと皇帝に訴えた。明帝は届けられた原稿を読み、その才を認めた。班固は罪を許されたばかりか、宮中の書庫を預かる役に取り立てられ、朝廷の命で歴史を書くことになった。

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書
天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書Wikimedia Commons Gisling · CC BY 3.0

それから20年あまり、班固は書き続けた。こうしてできたのが『漢書』である。前漢の初代の高祖が立った紀元前206年から、前漢を奪った王莽の新が滅ぶ紀元23年まで、およそ230年を書く。皇帝ごとの年代記である「紀」が12篇、年表の「表」が8篇、制度や文化を主題ごとにまとめた「志」が10篇、人物の伝記の「伝」が70篇、合わせて100篇。『史記』の形を土台にしながら、諸侯の家の歴史の「世家」をやめて伝に収め、「書」を「志」と改めて大きく広げた。

『漢書』の志は、後の歴史家にとって宝庫になった。「地理志」は全国の郡や県を並べ、紀元2年の戸籍の数を載せている。その数はおよそ5900万人で、当時の中国の人口を知る基本の資料である。「芸文志」は宮中の書庫にあった書物の目録で、それをもとに、どんな本があって何が失われたかが分かる。物価や税や貨幣を扱う「食貨志」、刑罰の歴史を書く「刑法志」も、のちの正史に受け継がれた。

班昭・『晩笑堂竹荘畫傳』より
班昭Wikimedia Commons Public domain

班固は司馬遷を尊敬しつつ、厳しく批判もした。司馬遷の伝の結びで、班固は、その記述が事実に忠実で飾らない「実録」だと讃える一方、物事の善し悪しの判断が聖人の道に外れている、と書く。儒学の経典より道家を先に置き、まっとうな士より侠客を持ち上げ、金儲けを称えて貧しさを恥とした、というのである。司馬遷は、宮刑を受けた屈辱の中で、権力から外れた人々に共感を寄せた。班固は朝廷に仕える史官として、漢の正しさを示す歴史を書いた。二つの史書の違いは、二人の立場の違いでもあった。

班固の最期は不運だった。89年、外戚の将軍竇憲が北匈奴を討ったとき、班固は幕僚として従い、勝利を記念してモンゴル高原の燕然山の岩に刻む銘文を書いた。2017年、その銘文の刻まれた崖がモンゴルで確認されたと発表されている。ところが92年、竇憲は権力争いに敗れて自殺に追い込まれ、その一派として班固も捕らえられた。以前、班固の家の奴僕が酒に酔って洛陽の長官の車を罵ったことがあり、恨みを抱いていた長官がこの機に彼を獄につないだ、と伝えられる。班固は獄中で死んだ。61歳だった。

『漢書』は、まだ仕上がっていなかった。8つの表と天文志が欠けていた。和帝は、班固の妹の班昭に、宮中の書庫で兄の仕事を完成させるよう命じた。夫を早くに亡くした班昭は、学識で知られ、宮中で皇后や女官に学問を教えていた人である。学者の馬続が天文志を助けた。こうして2世紀の初め、『漢書』は書き上がった。

できあがった『漢書』は、難しかった。古い字や言い回しが多く、すぐに読める者は少なかった。のちに大学者となる馬融も、宮中の書庫で班昭について読み方を学んだ、と伝えられる。『漢書』は、世に出てすぐに注釈を要した最初の史書の一つだった。のちに唐の顔師古が付けた注は、いまも読まれている。

『漢書』が後世に残した最大のものは、その形である。一つの王朝の始まりから終わりまでを、一つの書物に閉じる。王朝が滅ぶと、次の王朝が前の王朝の歴史をこの形で書く。それは、自分たちが天命を受け継いだ正統な後継者であることを示す仕事でもあった。陳寿の『三国志』(陳寿『三国志』)も、『後漢書』も、唐の歴史も明の歴史も、みなこの形で書かれた。のちに正史として数えられる二十四の史書のうち、王朝をまたぐ通史の形をとるのは『史記』など一部にすぎない。中国の歴史の書き方の型は、『漢書』で決まったのである。

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