シャルマネセル3世の黒いオベリスク
概要
アッシリア王が31年の遠征を黒い石に刻んだ。跪いて貢ぐ「オムリの子イエフ」。イスラエルの王が絵で残った唯一。象、猿、ラクダ。カルカルの戦いの相手だったアハブの後継者が、貢いでいる。大英博物館。
場所
36.10°N 43.33°E · イラク
関わった人(1)
シャルマネセル3世?–BC824年 · 王本文
1846年、イギリスの若い旅行家オースティン・ヘンリー・レヤードは、いまのイラク北部、ティグリス川のほとりのニムルドの丘を掘っていた。そこは古代アッシリアの都カルフの跡だった。宮殿の跡の近くで、作業員たちが黒い石の柱を掘り当てた。高さ2メートルほど、頂きが階段状にすぼまった四角い柱で、四つの面に5段ずつ、合わせて20の場面が浮き彫りにされ、そのまわりを190行ほどの楔形文字がびっしりと埋めていた。これが、いま大英博物館に収められている「黒いオベリスク」である。
柱を建てさせたのは、紀元前858年から824年まで在位したアッシリア王シャルマネセル3世である。碑文は、王が治世の31年間に毎年のように行った遠征を、年ごとに記録している。北のウラルトゥ、東のザグロスの山々、西のシリアと地中海の岸辺。アッシリアは、この王のもとで、武力で周りの国々に貢ぎ物を出させる帝国(新アッシリア帝国)としての姿を整えつつあった。柱が建てられたのは、紀元前825年ごろ、王の治世の終わり近くと考えられている。

浮き彫りが描くのは、五つの国や地方の支配者が王に貢ぎ物を差し出す場面である。北西のギルザヌの王はラクダと馬を、ユーフラテス川中流のスフの統治者や、北シリアのパティナの王は、それぞれの土地の産物を差し出している。エジプトとみられる国からは、ラクダ、象、猿などの動物が連れてこられた。遠い土地から珍しい獣が集まってくることは、王の力が世界の果てまで及んでいることを示す印だった。
その中に、聖書の読者を驚かせる一場面があった。上から二段目、ひげをたくわえ、先の垂れた帽子をかぶった男が、アッシリア王の前に跪き、額を地につけている。その後ろには、金や銀の器、錫、王笏、槍を携えた13人の従者が並ぶ。添えられた文字は「オムリの子イエフの貢ぎ物」と読める。イエフは、旧約聖書の列王記に描かれる北のイスラエル王国の王である(イエフ)。

もっとも、イエフはオムリの子ではない。オムリは、北の王国の都サマリアを築いた王で(オムリのサマリア建設)、その子がアハブである。イエフは、紀元前841年ごろ、アハブの家の王を殺して王位を奪った将軍だった(イエフの反乱)。アッシリアの人々は、イスラエルの国を、建国の王の名をとって「オムリの家」と呼んでいた。そのため、オムリの家の国の王、という意味で「オムリの子」と書いたのだろうと考えられている。跪いている男がイエフ本人なのか、その使者なのかについても、研究者の意見は分かれている。それでも、聖書に名の出てくるイスラエルの王の姿を、同じ時代の絵として伝える、現存する唯一の例とされている。
碑文と浮き彫りの奥には、シャルマネセルと西方の国々との長い争いがあった。紀元前853年、王はシリアのカルカルで、ダマスクス、ハマト、そしてイスラエルの王アハブを含む諸国の連合軍と戦った(カルカルの戦い)。別の碑文は、アハブが戦車2000台を出したと記している。王は大勝利をうたったが、その後も西方への遠征を繰り返したところを見ると、決定的な勝利ではなかったらしい。紀元前841年、王はダマスクスの新しい王ハザエルを破って都を囲み、周りの果樹園を切り払った。このとき、ティルスやシドンとともに、イエフも貢ぎ物を差し出した。黒いオベリスクの場面は、この年のことと考えられている。聖書の列王記は、この貢納について何も語っていない。

シャルマネセルの晩年、王子の一人が反乱を起こし、20を超える都市がこれに加わった。反乱は別の王子シャムシ・アダド5世によって鎮められたが、アッシリアはその後しばらく力を失った。その隙に、イスラエルはヤロブアム2世のもとで繁栄し、預言者アモスは、象牙で飾った家に住む富める者たちの驕りを責めた(アモスとホセアの預言)。だが紀元前8世紀の半ば、アッシリアは再び強大になって西へ戻ってきた。征服した民を遠くへ移すその政策(アッシリアの強制移住)のもとで、紀元前722年、北のイスラエル王国は滅びる。
レヤードの発掘の記録『ニネヴェとその遺跡』は1849年に出版されてベストセラーになった。聖書に書かれた王の名が、同じ時代の石の上に刻まれている。その発見は、ヴィクトリア時代のイギリスの人々に、聖書の世界が現実の歴史につながっていることを強く印象づけた。