できごと

ロゼッタ・ストーンの解読

Decipherment of the Rosetta Stone
AD1822年9月
重要度 5
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国デンマークペルシアスウェーデン=ノルウェーオーストリア帝国エジプトスペインフランスNejdモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1822年9月パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1822年9月の版図を描いています(24勢力)。

概要

同じ勅令が三つの文字で刻まれた石から、シャンポリオンが聖刻文字を解いた。エジプト3000年の記録が、初めて読めるようになる。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

シャンポリオンAD1790年12月23日–AD1832年3月4日 · 解読した

本文

1799年7月、ナイル河口の町ラシード(ヨーロッパではロゼッタと呼ばれた)で、ナポレオンのエジプト遠征のフランス軍の兵が要塞を補強していた。指揮していた工兵のブシャール中尉は、壁の石材の中に、文字がびっしり刻まれた黒っぽい石板があるのに気づいた。高さは1メートルあまり。上段に聖刻文字(ヒエログリフ)、中段に民衆文字(デモティック)、下段にギリシア文字が刻まれていた。

ギリシア語の部分は読めた。紀元前196年、メンフィスに集まった神官たちが、プトレマイオス朝の王プトレマイオス5世を讃えて出した決議で、同じ内容を三つの文字で刻むよう命じていた。つまり、この石には同じ文が三通りの書き方で並んでいる。読めない文字を読むための手がかりとして、これ以上のものはなかった。石はフランス軍の降伏の際の取り決めでイギリスに渡り、1802年から大英博物館に置かれた。だが写しや拓本はすでに各地の学者に配られていた。

ロゼッタ・ストーン 上から順に、古代エジプトのヒエログリフ、古代エジプトのデモティック(草書体)、ギリシア語を用いて同じ内容の文章が記されている
ロゼッタ・ストーン 上から順に、古代エジプトのヒエログリフ、古代エジプトのデモティック(草書体)、ギリシア語を用いて同じ内容の文章が記されているWikimedia Commons Public domain

それでも解読は簡単に進まなかった。聖刻文字が最後に刻まれたのは4世紀の末で、それから1400年あまり、読める者はいなかった。古代のギリシアやローマの著述家は、聖刻文字は音ではなく、絵で深い観念を表す神秘の文字だと書き残していた。ヨーロッパの学者たちもそれを信じ、絵の意味を象徴として読み解こうとして行き詰まっていた。

最初の突破口は、民衆文字の側から開かれた。フランスのシルヴェストル・ド・サシとスウェーデンのオーケルブラードは、民衆文字の部分からプトレマイオスなどいくつかの人名を拾い出した。続いてイギリスの医者で物理学者のトマス・ヤングが、聖刻文字の中で楕円の枠(カルトゥーシュ)に囲まれた部分が王の名で、少なくとも外国の王の名はその中の記号が音を表しているらしい、と気づいた。ヤングはプトレマイオスの名の記号のいくつかに正しい音を当てている。ただし彼は、音で読めるのはギリシア系の王の名のような特別な場合だけで、エジプトの文字そのものは表意的なものだと考えていた。

ミシェル・アンジュ・ランクレ
ミシェル・アンジュ・ランクレWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その先へ進んだのがシャンポリオンだった。1790年に南フランスのフィジャックで生まれ、兄に育てられた彼は、少年のころからヘブライ語、アラビア語、シリア語、そしてエジプトのキリスト教徒の言葉であるコプト語を学んだ。コプト語は古代エジプト語の最後の段階の言葉で、ギリシア文字をもとにした文字で書かれていた。シャンポリオンは、古代のエジプト人もこれに近い言葉を話していたはずだと考え、聖刻文字の背後にあるその言葉を探していた。

1822年、シャンポリオンは、ナイル上流のフィラエ島から運ばれたオベリスクの写しを手に入れた。そこにはギリシア語の銘文とともに、プトレマイオスとクレオパトラの名のカルトゥーシュがあった。二つの名に共通する音の記号を照らし合わせ、文字の対応を広げていった。そして同じ年の9月、エジプトの神殿の碑文の新しい写しの中に、ギリシア系ではない古い王の名を見つける。太陽を表す記号に音の記号が続く名は、コプト語の知識でラムセスと読めた。もう一つはトトメスと読めた。音で書かれていたのは外国の王の名だけではなかった。エジプト人自身の名も、エジプトの言葉の音で書かれていた。

イングランドにロゼッタ・ストーンが持ち込まれたことを報じた記事(ジェントルマンズ・マガジン、1802年)
イングランドにロゼッタ・ストーンが持ち込まれたことを報じた記事(ジェントルマンズ・マガジン、1802年)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

伝えられるところでは、シャンポリオンは兄の勤め先へ駆け込み、分かったと叫んで、そのまま気を失い、数日寝込んだという。9月の末、彼はパリの碑文・文芸アカデミーの事務局長ダシエに宛てた手紙という形で発見を発表した。この「ダシエ氏への手紙」が、解読の日付とされる。

1824年に出した著作で、シャンポリオンは聖刻文字の仕組みを示した。それは絵文字でも純粋な音の文字でもなく、音を表す記号と意味を表す記号と、語の種類を示す限定の記号を組み合わせた体系だった。古代の著述家の説明は、半分しか当たっていなかったことになる。彼は1828年から翌年にかけてエジプトを訪れ、神殿の碑文を実際に読み、自分の方法が正しいことを確かめた。だがその3年後の1832年、41歳で亡くなる。ヤングとのあいだには、どちらが解読の功労者かをめぐる争いが残った。

第2回国際東洋学者会議で専門家による検分をうけるロゼッタ・ストーン(1874年)
第2回国際東洋学者会議で専門家による検分をうけるロゼッタ・ストーン(1874年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

解読の正しさは、その後も確かめられた。1866年には、同じく複数の文字で刻まれた別の神官決議の石碑が見つかり、シャンポリオンの方法でそのまま読めることが示された。19世紀を通じて文法と語彙が整えられ、古代エジプトの文書が次々に読まれていく。同じころ、西アジアでは楔形文字の成立の解読も進んでいた。

これで、3000年ぶんの碑文とパピルスが読めるようになった。王の年代記、神々への讃歌、死者の書、役人の手紙、裁判の記録、物語、恋の詩。古代エジプトは、ギリシア人の書き残した伝聞ではなく、自分の言葉で語る相手になった。エジプト学という学問は、この日から始まる。石はいまも大英博物館にあり、エジプトはその返還を求め続けている。

出典(1)

エドワード・W・サイード(今沢紀子 訳) 『オリエンタリズム』第2章 オリエンタリズムの構成と再構成

同じ時代のできごと

阮朝の成立AD1802年『東海道中膝栗毛』AD1802年インド大三角測量AD1802年マーベリー対マディソン判決AD1803年2月24日ルイジアナ買収AD1803年モルヒネの単離AD1804年ナポレオン法典AD1804年3月21日ペール・ラシェーズ墓地AD1804年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1822年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →