猪山家の家計簿
概要
加賀藩の会計係の家が、37年分の収支を書き残した。武士が借金でどれほど追い詰められていたか、何にいくら使ったかが、一文単位で分かる唯一の史料になる。
場所
36.56°N 136.66°E · 日本・石川県(加賀藩の城下)
関わった人(1)
猪山直之AD1810年–AD1875年 · 記録した本文
2001年、歴史学者の磯田道史は、東京・神田の古書店の目録の中に「金沢藩士猪山家文書」と題された一束を見つけた。手に入れて開くと、それは加賀藩に仕えた一つの武士の家が、毎日の出入りの金を書きとめた家計簿だった。天保13年(1842年)から明治12年(1879年)まで、途切れながらも37年分が残っている。収入と支出が、銀の匁、銭の文といった細かい単位まで記されていた。磯田はこれを読み解いて2003年に『武士の家計簿』を出し、2010年には映画にもなった(物語「『武士の家計簿』で読む幕末」)。
猪山家は、前田利家に始まる加賀百万石の前田家に仕えた「御算用者」の家だった。藩の財政を扱う会計係で、そろばんと筆で年貢米や支払いを勘定する。武士の中では身分の高い家ではなく、刀よりも算盤の腕で代々の役目を勤めてきた。家計簿を始めた猪山直之も、その腕で藩の勘定の役所に勤めた人である。
家計簿が始まった1842年、猪山家は大きな決断をしていた。当時、猪山家の借金は年収のおよそ2倍にふくらみ、毎年の利子の支払いだけで収入の3分の1ほどが消えていた。天保の飢饉のあとの物価の高騰と、藩の財政難による給与の切り下げが重なった時代でもあった。直之は、家にある値打ちのある物を残らず売り払って借金を返すことにした。家財道具も書物も衣類も手放した。帳面には、売った品の名と値段が一つずつ書き連ねてある。それを元手に借金の多くを返した。そしてこの年から、一文の出入りもおろそかにせず帳面につけはじめた。

帳面から見えてくる武士の暮らしは、刀を差して威張る姿とはかけ離れている。支出のなかで重いのは、食べ物や着る物より、身分にふさわしい付き合いと儀礼にかかる費用だった。親類や上役への贈り物、冠婚葬祭の祝い金と香典、子どもの成長の祝い、年中行事のもてなし。武士の家は、そうした出費を削ると体面を失い、勤めにも差し障る。家来や下女を抱える費用もかかった。身分を保つこと自体に、金がかかっていたのである。その一方で、猪山家は子どもの教育には惜しまず金を使い、息子に早くから算術と筆を仕込んでいる。
帳面にはまた、家族の暮らしの小さな出来事も現れる。子どもの病気の薬代、正月の支度、法事の費用。数字の並びのなかに、天保から幕末を経て明治に至る一つの家族の喜びと不安が読み取れる。
時代は大きく動いた。直之の息子の成之は、父に劣らない算術の腕を持っていた。幕末、加賀藩は京都へ兵を出し、成之は兵の食糧や物資を手配する会計の役で働いたとされる。その腕を買われて新政府の軍の兵站の仕事に引き抜かれ、明治になると東京に出て海軍の主計の役人になった。大政奉還と廃藩置県で藩はなくなり、武士の身分と家禄も、やがて秩禄処分で取り上げられる。多くの武士の家が生活の手段を失って没落していくなかで、猪山家は、国に雇われた成之の高い俸給で、かえって豊かになった。

磯田が強調するのは、この家を救ったのが身分ではなく技能だったことである。藩という組織が消えても、勘定のできる人間は新しい国家にも必要とされた。刀は役に立たなくなっても、そろばんは役に立った。一方で、家の格式や伝統にしがみついた多くの士族は、西南戦争のような反乱に加わり、あるいは慣れない商売に手を出して財産を失った。
この家計簿がとりわけ貴重なのは、同じ一家の、同じ書き方の記録が、江戸時代から明治にかけて長く途切れずに残っているからである。武士の家の家計の記録は、断片ならほかにもあるが、これほどまとまって、身分制度の終わりをまたいで残った例はほとんど知られていない。大きな制度の変化が、一つの家の台所にどう響いたのかを、数字で追うことができる。