ヤークート・アル=ハマウィー
概要
ギリシア人の奴隷として買われ、解放されて書物の商いをした。モンゴルの襲来から逃れながら、地名を引ける『諸国地誌』を編み上げる。
関わったできごと(1)
『諸国地名辞典』AD1228年 · 編纂本文
1179年ごろ、ビザンツ帝国の領内、小アジアのどこかでギリシア人の両親から生まれた。幼いころに戦争で捕らえられ、奴隷として売られて、バグダードにたどり着いた。本人は生まれ故郷のことをほとんど書き残していない。
彼を買ったのは、アスカルというバグダードの商人だった。読み書きのできない人だったとされ、商売の帳簿と手紙を任せられる者が欲しかった。ヤークートはアラビア語の読み書きと計算を仕込まれ、主人の代理として、ペルシア湾の島々やオマーン、シリアへ商用の旅に出された。名前の「ヤークート」はルビーを意味するアラビア語で、宝石や香料の名は、当時奴隷に付けられることの多い名前だった。「ハマウィー」は主人の出身地シリアのハマーから来ている。
1199年ごろ、主人と仲違いして解放された。それからは本を写して売る仕事で生計を立てた。主人とはのちに和解し、再び商用の旅に出たが、戻ったときには主人は死んでいた。以後は書物の商人として、本を売り買いしながら各地を旅する暮らしになる。
旅の途中、ダマスカスで、預言者ムハンマドの娘婿アリーについて批判的な意見を口にし、怒った人びとに襲われかけて逃げ出したことがある。歯に衣を着せない人だったようで、晩年に至るまで論争相手には事欠かなかった。
1210年代の半ば、東のホラーサーン地方へ向かった。中でも長く留まったのがメルヴで、2年あまりをこの町で過ごしている。メルヴは中央アジアの交易路の要にある古い大都市で、ヤークートによれば公共の図書館が10あり、そのうちの一つには1万2000冊の本があった。本は気前よく貸し出され、彼は一度に200冊を家に持ち帰ることもあったという。このとき集めた抜き書きが、のちの著作の土台になる。
1219年ごろ、ヤークートはさらに東のホラズム地方にいた。そこへ、チンギス・ハンのモンゴル軍が攻めてきた。ホラズムの王がモンゴルの使節と商人を殺したことへの報復で、町々は次々に包囲され、抵抗した町の住民は皆殺しにされた。ヤークートは原稿の一部だけを抱えて西へ逃げ、モスルを経て、シリアのアレッポに落ち着いた。メルヴは1221年にモンゴル軍に落とされ、住民の多くが殺された。彼が本を借りた図書館も、そのとき失われたとみられている。
アレッポでは、学問好きの宰相イブン・アル=キフティーが彼を保護した。ここで、逃げる途中も手放さなかった抜き書きをもとに、大著『諸国地誌』(ムウジャム・アル=ブルダーン)を書き上げる。1224年に草稿が成り、1228年に清書が終わった。
この本は、イスラーム世界と、その周りで知られていた土地の名を、アラビア文字の字母の順に並べた地名の事典である。町や山や川や国の名を引くと、正しい読み方、場所、歴史、名産、そこから出た学者や詩人、その土地を詠んだ詩が並ぶ。冒頭には、地球の形や気候帯、地図の描き方についての総論もある。項目は1万を超え、先行する地理書や旅行記、自分の見聞が組み合わされている。ヤークートが手にした本の多くはその後失われたため、この事典は、モンゴルの侵入以前の東方イスラーム世界の姿を伝える、他に代えのない記録になった。
同じころ、学者や文人の伝記を集めた『文人辞典』も編んでいる。書物の商人として、誰がどんな本を書いたかを知り尽くしていた人ならではの仕事である。
1229年、ヤークートはアレッポで死んだ。50歳前後だった。遺言で、自分の蔵書をバグダードのモスクに寄付し、人びとが読めるようにしてほしいと頼んでいる。その29年後、バグダードの陥落が起き、モンゴル軍がバグダードを破壊して、アッバース朝の都の書物の多くも失われた。

ギリシアで生まれ、奴隷として連れてこられ、アラビア語で書き、モンゴルから逃げて本を守った。ヤークートの一生は、そのまま13世紀のイスラーム世界の広さと危うさを映している。西のシチリアで地図を作ったアル=イドリースィーと並んで、中世イスラームの地理学の代表者に数えられる。