テト攻勢

概要
旧正月の休戦の夜、南ベトナム全土の100の街を解放戦線が襲った。サイゴンの米大使館の庭。フエは1か月。軍事的には解放戦線が壊滅した。だがテレビが映した。クロンカイトが「泥沼」と言い、ジョンソンは「クロンカイトを失えば中間層を失った」と言って、再選に出なかった。
場所
16.46°N 107.59°E · ベトナム
本文
1967年の暮れ、アメリカは南ベトナムに50万人近い兵を送り込んでいた。ベトナム戦争は泥沼の様相を見せ始め、国内では反戦の声が高まっていた。それでも政府と軍は、戦争は勝利に向かっていると説いた。南ベトナム駐留米軍の司令官ウェストモーランドは、11月に帰国して、終わりが見え始めた、という見通しを語った。
1968年1月21日、北ベトナム軍の大軍が、南北の境界に近いケサンの米海兵隊基地を囲んだ。1954年、フランス軍が山間の基地に閉じこめられて大敗したディエンビエンフーの戦いの再来になるのではないかと、ワシントンは神経をとがらせた。ジョンソン大統領は、ホワイトハウスにケサンの地形の模型を置かせて戦況を見守ったと伝えられる。アメリカの目は、ケサンに注がれていた。

ベトナムの旧正月、テトは、一年で最も大切な祝日である。毎年この時期には休戦が結ばれ、南ベトナム軍の兵士の多くも休暇で家に帰っていた。1月30日の未明、南ベトナムの中部でいくつかの町が攻撃を受けた。そして翌31日の未明、南ベトナムのほぼ全土で、解放戦線と北ベトナム軍がいっせいに攻撃を始めた。参加した兵は8万人前後とされる。44の省都のうち36、主要な都市のほとんど、60を超える郡都が襲われた。
首都サイゴンでは、解放戦線の工兵19人が、アメリカ大使館の塀を爆破して敷地に入り込んだ。建物の中には入れず、6時間ほどで全員が殺されるか捕らえられたが、その間の銃撃戦はテレビで伝えられた。大統領官邸、放送局、統合参謀本部、タンソンニャット空港も攻撃を受けた。中国系住民の多いチョロン地区では、何日も市街戦が続いた。アメリカの人々は、最も守られているはずの大使館の庭で戦闘が起きている映像を、自宅の居間で見ることになった。

最も激しい戦いは、中部の古都フエで起きた。かつてのグエン朝の都で、堀と城壁に囲まれた旧市街に王宮がある。解放戦線と北ベトナム軍は旧市街のほとんどを押さえ、王宮の旗竿に旗を掲げた。アメリカ海兵隊と南ベトナム軍は、家を一軒ずつ奪い返す市街戦を強いられた。王宮が奪い返されたのは2月24日で、戦いは1か月近く続いた。街の建物の多くが壊れ、多くの市民が家を失った。
フエが奪い返されたあと、市内や近郊で集団の墓が次々に見つかった。占領の間に、解放戦線と北ベトナム軍が、役人、警察官、教師、僧、外国人など、敵とみなした人々を名簿に従って連れ出し、殺していたのである。見つかった遺体はおよそ2800体にのぼり、行方の分からない人も多かった。一方、アメリカ側でも、3月16日にソンミ村で米軍の部隊が住民数百人を殺すソンミ村虐殺が起きている。この事件が明るみに出るのは翌年のことだった。

2月1日、サイゴンの路上で、南ベトナムの国家警察長官グエン・ゴク・ロアンが、捕らえられた解放戦線の男の頭を拳銃で撃ち抜いた。その瞬間をAP通信のエディ・アダムズが撮影し、テレビのカメラも同じ場面を記録した。写真は世界中の新聞に載り、のちにピュリッツァー賞を受けた。メコンデルタの町ベンチェをめぐっては、町を救うためには破壊しなければならなかった、という米軍将校の言葉が報じられ、この戦争の矛盾を象徴する言葉として広まった。ただ、だれが実際にそう言ったのかははっきりしていない。
2月27日、CBSのニュースキャスター、ウォルター・クロンカイトは、ベトナムを取材して戻った特別番組の最後で、自分の意見を述べた。アメリカは膠着した泥沼にはまり込んでおり、抜け出す道は交渉しかない、という趣旨である。アメリカで最も信頼される報道人の一人の言葉は重く受け止められた。ジョンソンが、クロンカイトを失ったなら中間のアメリカ国民を失ったのだ、と漏らしたという話はよく知られているが、本当にそう言ったかは確かめられていない。

3月10日、ウェストモーランドが20万人を超える増派を求めていることが報じられた。3月12日、ニューハンプシャー州の民主党予備選挙で、反戦を掲げたユージン・マッカーシー上院議員が4割を超える票を集め、現職の大統領に迫った。3月16日には、ジョン・F・ケネディの弟ロバート・ケネディが大統領選挙への出馬を表明した。3月31日、ジョンソンはテレビ演説で北ベトナムへの爆撃の大部分を止めると発表し、最後に、次の大統領選挙で党の指名を求めることも受けることもしない、と付け加えた。
軍事的に見れば、テト攻勢は攻めた側の大きな失敗だった。北ベトナムの指導部は、総攻撃に呼応して都市の住民が一斉に蜂起することを期待していたが、蜂起は起きなかった。攻撃はどこでも押し返され、攻めた側は数万の兵を失ったとされる。とくに南の解放戦線の損害は大きく、その後の戦いは北ベトナム軍の正規軍が担うようになった。攻勢は5月と8月にも繰り返されたが、同じように押し返された。

それでも、アメリカの世論はこのとき大きく変わった。勝利は近いという政府の言葉と、テレビに映る光景の食い違いは、「信頼性の格差」と呼ばれた。5月には、パリで北ベトナムとの和平交渉が始まった。この年の秋の大統領選挙では、名誉ある撤退を掲げたリチャード・ニクソンが勝つ。アメリカ兵の撤退が始まり、1973年のパリ和平協定で米軍は去り、1975年のサイゴン陥落で戦争は終わった。
戦場で勝って、戦争に負けた。テト攻勢はしばしばそう評される。1968年は、パリの五月革命やプラハの春など、世界中で異議申し立てが噴き出した年でもあった。その始まりに、旧正月の夜の攻撃があった。フエの城壁には、いまも弾の跡が残っている。