敦煌の石窟の造営
概要
砂漠の縁の崖に千年かけて掘りつづけられた。20世紀にその一室から5万点の文書が出て、現存最古の印刷本『金剛般若経』(868年)もそこにあった。
場所
40.14°N 94.66°E · 中国・甘粛省
本文
敦煌は、中国の河西回廊の西の端にあるオアシスの町だった。ここから西へは、タクラマカン砂漠の北を回る道と南を回る道に分かれる。西から来た隊商にとっては砂漠を越えてたどり着く最初の町で、東から行く者にとっては、砂漠へ出る前の最後の町になる。漢の時代に置かれた郡と、玉門関・陽関の二つの関所が、その要の位置を物語る。
町の南東、鳴沙山の東の崖に、366年、楽僔という僧が最初の窟を掘ったと、7世紀の末に建てられた碑は伝える。崖が夕日に照らされて千の仏のように金色に輝くのを見て、窟を開いたという。伝承の色が濃いが、4世紀の後半に造営が始まったことは、ほかの手がかりとも食い違わない。いまこの石窟群は莫高窟と呼ばれる。

それから元の時代まで、およそ千年にわたって窟は掘られ続けた。南北約1.6kmの崖に、いま735の窟が残り、そのうち約500に壁画や塑像がある。壁画の総面積は4万5000平方メートルに及ぶ。窟を寄進したのは、町の有力な一族、役人、商人、僧、そして旅の無事を祈る人びとだった。壁には寄進した家族の姿が、名前を添えて描かれている。
壁画は時代ごとに姿を変える。初めの頃は、インドや中央アジアの様式の濃い仏の姿や、釈迦の前世の物語。唐の時代になると、極楽浄土の宮殿と楽人と舞い手が、壁一面に華やかに描かれる。高さ30mを超える大仏も唐代に作られた。8世紀の後半、敦煌はチベット高原から勢力を伸ばした吐蕃の支配を受け、9世紀の半ばに地元の張議潮が取り戻した。支配者が変わっても、窟は掘られ続けた。壁画は仏教の美術であると同時に、当時の衣服、建物、農耕、旅の様子を伝える絵の記録にもなっている。

1900年、窟の一つに住みついて掃除と修理をしていた道士の王円籙が、通路の壁の奥に、塞がれた小部屋を見つけた。いまの第17窟で、蔵経洞と呼ばれる。中には巻物と文書と絵が、天井まで積まれていた。数は約5万点。4世紀から11世紀のはじめまでのもので、11世紀のはじめごろに封じられたと考えられている。なぜ封じたのかは分かっていない。西から攻めてくる勢力を恐れて隠したという説、使わなくなった経典や文書を納めたという説などがある。
中身は仏典だけではない。役所の文書、契約書、戸籍、手紙、暦、詩、習字の手本、医学書まであった。言葉も漢語だけではない。チベット語、ソグド語、ウイグル語、コータン語、サンスクリット、そしてヘブライ語の祈りの文まで出た。マニ教やネストリウス派キリスト教の経典もある(マニ教の成立)。この町を通り、この町に暮らした人びとの多様さが、そのまま紙の上に残っていた。

年の分かる印刷本として現存最古の『金剛般若経』も、ここにあった。巻物の末尾には、868年にあたる年と、王玠という人が両親のために謹んで作り、広く施す、という言葉が刷られている。売るためではなく、功徳を積むために作られ、配られた本になる。木版の絵と文字の出来から、印刷の技術がそれ以前にかなり成熟していたことが分かる。この技術はのちに、宋の時代の活字の工夫へと進んでいく(宋の活字と羅針盤)。
王円籙は役所に知らせたが、清の役人はほとんど関心を示さなかった。1907年、イギリスの探検家オーレル・スタインが来て、寄付と引き換えに大量の文書と絵を持ち出した。翌年にはフランスの東洋学者ペリオが来て、漢文の深い知識を生かし、価値の高いものを選び取った。続いて日本の大谷探検隊、ロシアのオルデンブルク、アメリカのウォーナーも、文書や壁画の一部を持ち去った。北京へ移された残りも、運ぶ途中で多くが抜き取られたとされる。

いま、敦煌の文書はロンドン、パリ、サンクトペテルブルク、北京、京都などに分かれている。中国では、国の宝が奪われた悲劇として語られる。持ち出した側では、混乱の時代に散逸を防いだという主張もある。いずれにしても、この小部屋の文書から、中国の中世の人びとの暮らし、仏教が伝わってきた道(仏教が中国へ)、玄奘の西域行のような求法の旅が行き来した世界を研究する、敦煌学という分野が生まれた。
莫高窟は1987年に世界遺産に登録された。いまは見学者の息が壁画を傷めないよう、公開する窟と人数を限り、壁画を写真に記録して、デジタルで公開する取り組みが進められている。