できごと

マヤ文字の解読

The decipherment of Maya script
AD1952年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1952年の版図を描いています(33勢力)。

概要

アメリカの権威エリック・トンプソンは、マヤ文字は表意的な絵であって言語を書き写したものではない、と主張し、その説が数十年、分野を支配した。レニングラードの若い研究者ユーリー・クノロゾフは、16世紀の司教ランダが残した「マヤのアルファベット」の写しを読み直し、それが音節を表す表だと見抜いた。1952年に発表した。冷戦下で、西側は「ソ連の宣伝」として無視した。1970年代以降、若い世代が彼の方法で読み進め、マヤの王の名と即位の年と戦争の記録が、次々に読めるようになった。

場所

サンクトペテルブルク
59.93°N 30.36°E · ロシア

関わった人(1)

ユーリー・クノロゾフAD1922年11月19日–AD1999年3月31日 · 読んだ

本文

メキシコ南部からグアテマラ、ベリーズ、ホンジュラスにかけての低地には、3世紀から9世紀ごろにかけてマヤの都市が栄えた(マヤ古典期)。ティカル、パレンケ、コパン、カラクムル。その石碑や祭壇、神殿の階段、土器や壁画には、びっしりと文字が刻まれている。四角い枠の中に、人や動物の顔、手、抽象的な形が詰め込まれた独特の字である。この文字を、20世紀の半ばまで誰も読めなかった。

読めなくなった理由の一つは、スペイン人による征服である。1562年7月、ユカタン半島のマニの町で、フランシスコ会の修道士ディエゴ・デ・ランダは、先住民がひそかに古い神々を拝み続けているとして、厳しい取り調べを行った。拷問で多くの人が死んだ。そしてランダは、マヤの文字で書かれた書物を集めて焼いた。彼は後に、書物には迷信と悪魔の偽りしか書かれていなかったのですべて焼いた、人々はひどく嘆き悲しんだ、という意味のことを書き残している。焼かれた冊数ははっきりしない。いま残るマヤの書物(樹皮の紙を折りたたんだ写本)は、ドレスデン、マドリード、パリにある3冊と、メキシコにある真贋の議論が長く続いた1冊の、わずか4冊である。

パレンケのマヤ文字碑文
パレンケのマヤ文字碑文Wikimedia Commons User:Kwamikagami · Public domain

皮肉なことに、文字を焼いたランダ自身が、解読の鍵を残した。行き過ぎた取り調べを咎められてスペインに呼び戻された彼は、弁明のためもあって、ユカタンの人々の暮らしや習わしを記した書物を1566年ごろにまとめた。その中に、マヤ人の協力者に、スペイン語のアルファベットの一つ一つをあなた方の文字でどう書くかと尋ねて書かせた表がある。「ランダのアルファベット」と呼ばれる表である。この書物の写しは、19世紀にフランスの神父ブラッスール・ド・ブールブールがマドリードで見つけて世に出した。

しかし、この表は長く役に立たないとされた。表のとおりに読んでも、写本の文はまったく意味をなさない。同じ音に何種類もの字が当てられ、字の数も合わない。多くの研究者が試しては失敗した。

一方で、数と暦は19世紀の終わりから読めていた。ドイツの図書館員エルンスト・フェルステマンは、ドレスデンの写本から、点が1、棒が5、貝の形が0を表すマヤの数字と、暦の仕組みを読み解いた。紀元前3114年のある日を起点に日数を数え続ける長期暦(マヤの長期暦)、260日の暦と365日の暦の組み合わせ、金星の動きを精密に追った表。マヤの天文学と数学の正確さは、人々を驚かせた。

マヤの長期暦に関わる図版:East side of stela C, Quirigua
マヤの長期暦Wikimedia Commons Maudslay · Public domain

その結果、一つの見方が広がった。20世紀半ばのマヤ研究の第一人者だったイギリス出身の考古学者エリック・トンプソン(1898〜1975年)は、碑文に書かれているのは暦と天文と神々のことであり、マヤの都市は祭司たちが時の流れを見つめる平和な神権の国だったと考えた。マヤ文字は話し言葉の音を書き写したものではなく、意味や象徴を絵で表す文字だというのが彼の立場だった。その権威は絶大で、この見方は数十年にわたって分野を支配した。

これに異を唱えたのが、ソ連の研究者ユーリー・クノロゾフである。1922年、ウクライナのハリコフの近くで生まれた。1945年、赤軍の兵士としてベルリンにいた彼が、燃える図書館からマヤの写本を複製した本を持ち出し、それが研究の始まりになったという話がよく語られる。しかし本人は後に、本を図書館から持ち出したのではないと否定しており、真相ははっきりしない。彼はモスクワ大学で古代の文字や民族を学び、レニングラード(いまのサンクトペテルブルク)の民族学の研究所に職を得た。ソ連の研究者だった彼は、長いあいだ中央アメリカへ渡ることを許されず、一度もマヤの遺跡を見ないまま研究を続けた。

MA D293 Maya stone carving from Copan
Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1952年、彼は論文を発表した。彼の考えは、世界の文字の比較から出発していた。エジプトの聖刻文字も、シュメールの楔形文字も、漢字も、意味を表す字と音を表す字が混じっている。意味だけを表す純粋な文字は存在しない。字の種類の数も手がかりになる。アルファベットなら20から30あまり、音節だけの文字なら数十から100ほど、意味を表す字が中心なら数千になる。マヤ文字は数百種類で、意味の字と音節の字が混じった文字の範囲に入る。

だから、ランダの表は使える、と彼は考えた。ランダが尋ねたのは、スペイン語のアルファベットの「名前」だった。「べ」「セ」「デ」「エレ」。協力者はその音をマヤの音節の字で書いた。だからBの欄には「べ」を表す字が、Lの欄には「エ」と「レ」の二つの字が書かれている。表はアルファベットではなく、音節の表だったのである。さらに彼は、ドレスデン写本で絵と字が並んでいる箇所に目をつけた。七面鳥の絵の横の字は、表の音を当てると「ク・ツ」と読め、マヤ語の七面鳥「クツ」になる。犬の絵の横は「ツ・ル」で、犬を表す語になった。マヤ語に多い子音で終わる語を、子音と母音の組の字を二つ並べて書き、最後の母音を読まないという規則も、彼が見抜いたものである。

『ドレスデン絵文書』のユカテコ語マヤ文字(11〜12世紀頃)
『ドレスデン絵文書』のユカテコ語マヤ文字(11〜12世紀頃)Wikimedia Commons circa 1200 date QS:P,+1200-00-00T00:00:00Z/9,P1480,Q5727902 · Public domain

だが時期が悪かった。1952年は冷戦のさなかである。当時のソ連の学術論文の慣例に従い、この研究を載せた号にはマルクス主義の理論やスターリンの言語学の論文への言及が添えられていた。西側の研究者の多くは、これを政治的な宣伝と受け取った。トンプソンは激しく反論し、クノロゾフの説を退けた。クノロゾフの読みの中に実際の誤りがあったことも事実だが、トンプソンの反応の激しさは学問の議論の範囲を超えていた。その後20年近く、西側で彼の説はほとんど顧みられなかった。

別の方向からも、壁は崩れ始めた。1958年、ドイツ生まれのハインリヒ・ベルリンは、都市ごとに決まった字の組み合わせ(紋章文字)があることを示した。都市や王家の名らしい。1960年、ロシア生まれのアメリカの研究者タチアナ・プロスクリアコフは、グアテマラのピエドラス・ネグラスの石碑を年代順に並べ、刻まれた日付が人の一生ほどの長さでまとまっていることに気づいた。ある日付には逆さのカエルのような字が、その十数年から30年ほど後の日付には別の字が添えられている。前者は誕生、後者は即位を表すと彼女は結論した。石碑は暦の瞑想ではなく、王たちの伝記だった。トンプソンは、信頼していた同僚だった彼女のこの説は受け入れたが、クノロゾフの音節の説は最後まで認めなかった。

ナランホ出土の石碑に刻まれたマヤ文字(イツァムナーフ・カウィル王、784〜810年)
ナランホ出土の石碑に刻まれたマヤ文字(イツァムナーフ・カウィル王、784〜810年)Wikimedia Commons Photo by Teoberto Maler · Public domain

1970年代、若い世代がクノロゾフの方法とプロスクリアコフの発見を組み合わせ、猛烈な勢いで読み進めた。1973年、メキシコのパレンケで開かれた研究会で、リンダ・シーリーやピーター・マシューズらは、パレンケの歴代の王の名と在位の年を、短い時間のうちに次々と読み解いてみせた。のちに少年のころからこの分野に加わったデイヴィッド・スチュアートが、新しい読みを重ねていった。

読めるようになった碑文は、トンプソンの描いた姿を覆した。そこにあったのは、王の名、父と母の名、誕生と即位の日、戦争、捕虜、いけにえ、同盟、王朝の交代、そして敗北である。踏みつけられた捕虜の図の横には、その捕虜の名が刻まれていた。マヤの都市は平和な祭司の国ではなく、互いに争い、同盟と裏切りを繰り返す王国の集まりだった(カラクムルとティカルの戦争)。パレンケのパカル王は615年に12歳で即位し、683年に80歳で亡くなった。その墓の石棺の蓋に刻まれた図と文字も、いまでは読める。いまでは碑文の大部分が、少なくとも大意はつかめるようになっている。ただし、読み方の定まらない字や、意味の分からない語も、まだ少なからず残っている。

ディエゴ・デ・ランダ『ユカタン事物記』(1853年ブラッサー・ド・ブールブール版)の頁。クノロゾフが解読の手がかりとした「デ・ランダ文字表」を含む
ユーリー・クノロゾフWikimedia Commons Public domain

クノロゾフが初めてマヤの遺跡を訪れたのは1990年、グアテマラの大統領の招きによる。60代の後半になっていた。その後、メキシコとグアテマラは彼に勲章を贈った。1999年3月、彼はサンクトペテルブルクの病院で肺炎のため76歳で亡くなった。猫を深く愛し、飼い猫を論文の共著者に加えようとして編集者に削られた、という逸話が伝わっている。2018年、ユカタン半島の町メリダに、猫を抱いた彼の像が建てられた。

マヤの言葉は滅びてはいない。いまもメキシコやグアテマラには、マヤ系の言語を話す人々が数百万人暮らしている。解読が進んだのは、研究者たちがこうした現代のマヤ語の辞書や文法を手がかりにしたからでもある。1980年代の終わりからは、研究者が現地で講習会を開き、マヤの人々自身が祖先の文字を学ぶ取り組みも始まった。かつて焼かれた文字が、子孫の手に戻りつつある。

ロゼッタ・ストーンの解読や線文字Bの解読と同じく、マヤ文字の解読も、文字の数を数え、並びの規則を探すことから始まった。そして、それを妨げたのは、文字の難しさだけではなく、権威と政治だった。

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