新井白石
概要
浪人の子。3歳で字を書いた。木下順庵に学び、甲府の徳川綱豊(のちの家宣)に仕えた。家宣が将軍になって、正徳の治。密入国したイタリア人宣教師シドッチを尋問して『西洋紀聞』『采覧異言』。『読史余論』で武家の政権交代を9段階に分けた。『折たく柴の記』は日本で最初の自伝の一つ。吉宗に追われ、本を書いて死んだ。
関わったできごと(1)
正徳の治AD1709年(宝永6年) · 政治をした本文
1657年、江戸に生まれた。江戸の大半を焼いた明暦の大火の、ひと月ほど後のことである。父の新井正済は上総の久留里藩に仕える武士で、無口で厳格な人だった。白石は幼いころから利発で、3歳で父の読む本の字を書き写したと、自伝『折たく柴の記』に書いている。怒ると額に「火」の字のようなしわが浮かんだので、藩主から「火の子」と呼ばれてかわいがられたという。
20歳を過ぎたころ、藩の内紛に巻き込まれて父とともに藩を追われた。浪人の暮らしは貧しかったが、白石は独学で学問を続けた。夜、眠気に襲われると、冬でも水をかぶって目を覚まし、また机に向かったという。裕福な商人から、娘婿になれば学問の費用を出そうという話もあったが断った。
1682年、大老の堀田正俊に仕えることができた。ところが2年後、正俊は江戸城の中で若年寄に刺し殺され、堀田家は領地を減らされて遠くへ移された。白石は再び浪人の身となる。その間に、儒学者の木下順庵の門に入った。順庵の門からは多くの学者が出ており、白石はその中でも抜きん出た弟子とされた。

1693年、順庵の推薦で、甲府藩主の徳川綱豊に儒学の講義をする役として仕えることになった。37歳だった。綱豊は3代将軍家光の孫にあたる。将軍の徳川綱吉に跡継ぎの男子がいなかったため、1704年、綱豊は将軍の養子として江戸城に入り、家宣と名を改めた。白石は19年にわたって家宣に経書や歴史を講じ、その講義は1000回を超えたという。
1709年、綱吉が死に、家宣が6代将軍になった。白石は正式な幕府の役職には就かなかったが、将軍の側近の間部詮房とともに家宣の相談役となり、幕府の政治を動かした。これが正徳の治である。

家宣が真っ先に行ったのは、綱吉の生類憐みの令をやめることだった。犬や生き物を傷つけたとして罰せられていた多くの人々が許された。白石が力を注いだのは、通貨の立て直しである。綱吉の時代、幕府は財政を補うために金貨と銀貨の質を落として量を増やし、物価が上がっていた。白石はこれを、国の信用を損なうものとして厳しく批判し、質を元に戻した正徳の金銀を作らせた。長崎の貿易で金銀が国外へ流れ出ていることも問題にし、1715年には来航するオランダ船と中国船の数と取引の額に上限を設けた。
朝鮮から来る通信使の迎え方も改めた。それまで通信使の接待には莫大な費用がかかっていた。白石は儀礼を簡素にするとともに、朝鮮の国書に記す将軍の呼び名を「日本国大君」から「日本国王」に変えさせた。将軍を対外的に国の主として示そうとしたのである。この変更は、朝鮮との間でも、幕府の中でも議論を呼び、のちに元に戻された。皇室については、天皇家の血筋が絶えるのを防ぐため、新しい宮家として閑院宮家を立てることを進言した。70年ほど後、この閑院宮家から光格天皇が出て、今の皇室につながっている。
同じころ、白石は生涯で最も不思議な出会いを経験する。1708年、鹿児島の南の屋久島に、侍の姿をした一人の外国人が上陸して捕らえられた。イタリア人のカトリックの宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチである。キリスト教が禁じられて100年近くたった日本に、布教のためにただ一人で渡ってきたのだった。シドッチは江戸に送られ、1709年の冬、白石はキリシタン屋敷で彼を4回にわたって尋問した。
言葉の壁は高かった。シドッチの覚えた片言の日本語と、オランダ語の通詞を頼りに、白石は世界の地理、各国の歴史、天文、そしてキリスト教について問いただした。白石はシドッチの学識と誠実な人柄に深く感心した。天文や地理の知識は非常に詳しい。ところが宗教の話になると、まるで別人のように愚かなことを言う、と白石は書いている。西洋の学問は形のあるものについては優れているが、形のないものについては劣っている、というのが白石の結論だった。白石はシドッチの処分について、本国に送り返すのが上策、牢に閉じ込めておくのが中策、処刑は下策だと幕府に進言した。シドッチは殺されず、キリシタン屋敷に留め置かれた。のちに世話をしていた夫婦に洗礼を授けたことが分かって地下の牢に移され、1714年にそこで亡くなった。2014年、キリシタン屋敷の跡から見つかった人骨は、遺伝子の分析などからシドッチのものと推定されている。
この尋問から、白石は『西洋紀聞』と『采覧異言』を書いた。世界の地理と、ヨーロッパの国々の様子を、日本人が初めて体系的にまとめた本である。『西洋紀聞』はキリスト教に触れているため、長く公にされなかった。
1712年、家宣が亡くなった。幼い家継が将軍となり、白石は引き続き政治に関わったが、家継も1716年に8歳で亡くなる。紀州から徳川吉宗が将軍に迎えられると、白石はすぐに職を退けられた。白石の進めた政策の多くは改められ、住んでいた屋敷も召し上げられた(享保の改革)。
失脚した白石は、それから9年あまり、書くことに打ち込んだ。家宣への講義をもとにした『読史余論』では、日本の歴史を、天下の大勢が公家の時代に九度変わって武家の時代となり、武家の時代になってからまた五度変わって徳川の世に至った、と段階に分けて論じた。神話を書き記した古い記録を、神は人であったという立場から読み解いた『古史通』、大名家の系譜をまとめた『藩翰譜』、北海道の地誌『蝦夷志』、言葉の語源を論じた『東雅』など、仕事は歴史、地理、言語、制度に及ぶ。そして、自分の生い立ちと政治の舞台裏を子孫のために書き残した『折たく柴の記』は、日本で最も早い時期の自伝の一つとして、今も読まれている。
性格は剛直で、自分が正しいと信じたことは譲らなかった。政敵からは「鬼」と呼ばれたという。同じ時代の儒学者の荻生徂徠とは学問の立場が違い、互いに相手を認めなかった。1725年、江戸で亡くなった。数えで69歳だった。
学者が将軍の側で政治を動かすという、江戸時代でもまれな経験をした人だった。その政治は短く終わったが、外国人宣教師の話に耳を傾け、世界の姿を書き留めた白石の好奇心は、のちの蘭学者たちに受け継がれていった。