バーミヤンの大仏
概要
ヒンドゥークシュの谷の砂岩の崖に、高さ55メートルと38メートルの立像が彫られた。表面は泥と漆喰で成形され、顔と手は木の骨組みで作られ、金と朱で彩色されていた。玄奘が630年に見て「金色に輝き、宝飾が煌めく」と書いた。シルクロードの交易と、ギリシアとインドとイランの様式が混ざった場所。2001年3月、タリバンが爆薬で破壊した。空の窪みが残っている。
場所
34.83°N 67.83°E · アフガニスタン
本文
アフガニスタンの中央部、ヒンドゥークシュ山脈の山あいに、標高2500メートルほどの細長い谷が東西に延びている。バーミヤンである。北のバルフ(古代のバクトラ)から山を越えて南のカーブル、さらにインドへと下る道が、ここを通る。東西を結ぶ交易路と南北の道の交わる場所として、隊商と巡礼者が行き交い、谷は宿場として栄えた。紀元1世紀から3世紀にはクシャーナ朝の隆盛がこの地域を治め、ガンダーラを中心に仏教とその美術が花開いた(ガンダーラの仏像)。クシャーナの衰えたあとも、遊牧の勢力が入れ替わる中で、仏教はこの山中に根を張り続けた。
谷の北側には、柔らかい堆積岩の崖が1キロ以上にわたって屏風のようにそびえている。人々はそこに1000を超える石窟を掘り、僧院や礼拝の場とした。そして崖の西と東に、それぞれ巨大な立像の仏を彫り出した。西の大仏は高さ55メートルほど、東の大仏は38メートルほどとされる(測り方によって数字に幅がある)。像の材料を放射性炭素で年代測定した結果によれば、東の大仏は6世紀後半、西の大仏は6世紀末から7世紀前半に作られた。

作り方は、まず崖を彫り込んで大まかな体の形を残し、その上に泥と藁を混ぜた土を塗り重ねて衣の襞や細部を形づくるというものだった。襞の部分には木の杭を打ち込んで縄を張り、それを芯にして土を盛った。顔や手には木の骨組みを使ったと考えられている。表面は漆喰で仕上げ、彩色し、金箔や宝飾で飾った。像を囲む龕の壁と天井には壁画が描かれ、仏や菩薩とともに、馬車を駆る太陽神の姿もあった。インドの仏教図像、ササン朝ペルシアの装飾、ギリシア風の衣の表現、中央アジアの人々の顔立ちが一つの崖の中で混じり合っていた。
630年ごろ、インドへ向かう唐の僧玄奘がこの谷を通った(玄奘の西域行)。彼の旅行記『大唐西域記』は、梵衍那国と呼んだこの国について、寺院が数十、僧が数千人いると記し、王城の東北の山の隈に高さ140〜150尺の石の立仏があり、金色に輝き、宝飾がきらめいている、その東にも高さ100余尺の立像がある、と書いている。さらに城の東の寺院には長さ1000余尺の涅槃の仏が横たわっている、とも記すが、この巨大な寝釈迦はいまだ見つかっていない。2008年には谷の別の場所で長さ19メートルほどの涅槃像の一部が発掘されたが、玄奘の記したものとは別とみられている。

2008年には、日本などの研究者による壁画の分析で、7世紀半ばの石窟の壁画に、乾性油を使った絵具、つまり油絵の技法が使われていることが分かった。ヨーロッパで油彩画が本格的に広まる15世紀より何百年も前のことで、油を使った絵画として知られる最も古い例の一つである。
9世紀以降、この地域はしだいにイスラームの王朝の支配下に入り、仏教の信仰は絶えた。それでも大仏は崖に立ち続けた。1221年には、チンギス・ハンの軍がバーミヤンを攻めた。包囲の戦いで孫が矢に当たって死んだため、怒ったチンギスは谷の生き物をことごとく殺させたと伝えられ、廃墟となった城跡は「叫びの町(シャフレ・ゴルゴラ)」と呼ばれるようになった。大仏はこのときも残った。17世紀にはムガル帝国のアウラングゼーブが大砲を撃ち込ませたとする伝承があり、18世紀のナーディル・シャーも砲撃したと言われる。二体とも顔の上半分が平らに削り取られていたが、それがいつ、誰の手によるものかは分かっていない。

20世紀、大仏は国際的な観光と研究の対象になった。だが1979年のソ連の侵攻(ソ連のアフガニスタン侵攻)に続く長い内戦で、谷は戦場となり、石窟は兵士の住みかや弾薬庫になった。1990年代後半、国土の大半を支配したイスラーム主義勢力タリバンは、当初は遺跡を保護すると表明していた。
2001年2月26日、タリバンの最高指導者ムッラー・ムハンマド・オマルは、国内にある非イスラーム的な像をすべて破壊せよという布告を出した。世界中から抗議が殺到した。ユネスコは特使を送り、各国は像を国外に引き取ってもよいと申し出、イスラーム諸国の法学者たちも、偶像崇拝の対象でなくなった古い像を壊す必要はないと説いて翻意を求めた。タリバンは聞き入れなかった。3月の初めから、戦車砲や対空砲で像を撃ち、それでも崩れないと、地元の住民を使って像に穴を掘らせ、爆薬を仕掛けて爆破した。3月半ばまでに、二体の大仏は崖から消えた。
なぜ壊したのか。タリバンは偶像の破壊は宗教上の義務だと説明した。その一方で、幹部の一人は後に、国際社会が飢えに苦しむアフガニスタンの人々には手を差し伸べないのに、石の像を守るためなら金を出すと言ってきたことへの怒りだった、と語った。二つの説明がともに語られている。この年の9月、タリバンがかくまっていた組織が9・11同時多発テロを起こし、アメリカの攻撃によってタリバン政権は年末までに崩れた。

その後、ユネスコと各国の専門家が崖と石窟の保存に取り組み、日本も大きな役割を担った。崩れ落ちた破片は集められ、番号を付けて保管されている。2003年、バーミヤン渓谷の文化的景観と遺跡群は世界遺産に登録され、同時に危機にさらされている遺産の一覧にも載せられた(世界遺産条約)。大仏を元の破片を使って部分的に組み直すべきか、新たに作り直すべきか、それとも空の龕をそのまま破壊の記憶として残すべきかは、いまも結論が出ていない。2015年には、中国人の夫妻が光の投影で一夜だけ大仏の姿を空の龕に浮かび上がらせた。2021年、タリバンは再び政権を握った(タリバンの復権)。いま、崖には二つの巨大な空洞が残っている。