エドゥアルド・ガレアーノ
概要
ジャーナリストとして書いた一冊が、南米の軍事政権に発禁にされ、亡命を強いられた。500年の収奪を、被害を受けた側の言葉で書き直した。
関わったできごと(1)
『収奪された大地』の刊行AD1971年 · 著者本文
エドゥアルド・ガレアーノは1940年9月3日、ウルグアイの首都モンテビデオに生まれた。家はウェールズやイタリア、スペインなどの移民の血を引く中流の家庭だった。少年のころの夢はサッカー選手になることで、自分には足の才能が無かった、と後年くり返し書いている。
14歳で、社会党系の週刊紙に風刺漫画を描いて売り込んだ。学校は早くにやめ、工場の労働者、銀行の使い走り、タイピスト、看板描きなど、さまざまな仕事をして暮らした。20歳を過ぎると、モンテビデオの左派の週刊誌『マルチャ』の編集に加わり、のちに日刊紙の編集長も務めた。ジャーナリストとしてラテンアメリカ各地を歩き、キューバ革命後の熱気と、各地の貧しさとを見て回った。
1971年、31歳のときに出したのが『収奪された大地』である(『収奪された大地』の刊行)。原題は「ラテンアメリカの開いた血管」。コロンブスの到来から現代まで、ラテンアメリカの富がどのように外へ流れ出していったかを描いた本で、スペインがボリビアのポトシ銀山の開発から銀を運び出した時代から、砂糖、ゴム、コーヒー、バナナ、石油、そして多国籍企業と借款の時代までを一つの流れとして書いた。本人は、90夜で書き上げたと語っている。学術書ではなく、怒りのこもった散文で書かれたこの本は、たちまちラテンアメリカ中で読まれた。
その怒りは、すぐに危険なものになった。1973年6月、ウルグアイで軍と大統領によるクーデターが起き、議会が解散させられた。ガレアーノは投獄され、釈放されると隣国アルゼンチンへ移った。ブエノスアイレスで文化誌『クリシス』を創刊し、編集を続けた。だが1976年にはアルゼンチンでもクーデターが起き、軍政の暗殺部隊の標的の名簿に彼の名が載った。同じ頃、チリでもウルグアイでも軍政が続いていた(チリのクーデター)。『収奪された大地』は、ウルグアイ、アルゼンチン、チリの軍事政権によって発禁にされた。ガレアーノはスペインへ逃れ、バルセロナに近い海辺の町に住んだ。

亡命の地で書いたのが、『火の記憶』三部作である。1982年から1986年にかけて出た。先住民の創世神話から20世紀まで、アメリカ大陸の歴史を、数行から一頁ほどの短い断章を年代順に何百も並べて描いた。一つひとつの断章には年と場所と出典が付き、征服者、奴隷、革命家、詩人、名もない女たちが入れ替わり現れる。歴史書でも小説でもない書き方で、ガレアーノの名を世界に知らせた代表作になった。
1985年、ウルグアイが民政に戻ると、ガレアーノは帰国し、以後はモンテビデオで暮らした。断章の書き方はその後の本にも引き継がれた。『サッカー 太陽と影』(1995年)では、サッカーを愛する者として、試合の美しさと、それを食い物にする商売を同じ筆で書いた。抱き合う人びとの本、忘れられた日々の本と、短い文章を積み重ねる形で書き続けた。
2009年、ベネズエラの大統領チャベスが、米州首脳会議の場でアメリカのオバマ大統領に『収奪された大地』を手渡した。その様子が報じられると、本は数十年ぶりにネットの売上上位に躍り出た。ガレアーノの名は、このとき改めて世界に知られた。
ところが2014年、ブラジルの書籍見本市で、ガレアーノはこの本について、いま読み返すことはできない、と語った。書いたころは経済も政治も十分には分かっていなかった、伝統的な左翼の文章は重たくて自分にはもう耐えられない、という趣旨だった。この発言は、本を批判してきた人びとにも、支持してきた人びとにも大きく報じられた。ただ本人は、本の主張そのものを取り下げたわけではない、とも述べている。
2015年4月13日、ガレアーノは肺がんのためモンテビデオで死んだ。74歳だった。勝った側ではなく、奪われた側の声で歴史を書き直す。その姿勢は、『火の記憶』や『収奪された大地』を通して、ラテンアメリカの外の読者にも受け継がれている(物語「『収奪された大地』で読むラテンアメリカ」)。