できごと

遣唐使の中止

Abolition of the missions to Tang China
AD894年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民唐ツングース系の人びとマレー系の人びと渤海ラージプートの諸氏族と小国南詔南詔と大理日本真臘クメール帝国アイヌヒンドゥーと仏教の小国群新羅ピュー(驃)の諸都市モンの諸国チャンパドヴァーラヴァティーAD894年京都
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD894年の版図を描いています(20勢力)。

概要

菅原道真が建議した。唐が衰え、航海の危険に見合わない、と。以後、日本は大陸の制度を写す段階から、自分の形を作る段階に入る。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

菅原道真AD845年–AD903年 · 建議

本文

630年、倭国の朝廷は犬上御田鍬を唐へ送った。最初の遣唐使である。それ以前の遣隋使を引き継ぎ、大陸の大帝国から法律や制度、仏教、学問、技術を学ぶための使節だった。それから200年あまりのあいだに、遣唐使は十数回にわたって海を渡った。任命されながら中止になった回を含めると20回ほどになる。阿倍仲麻呂のように唐に残って高官となった者もいれば、吉備真備や玄昉のように多くの書物や知識を持ち帰って朝廷で重んじられた者もいる。804年の使節には最澄と空海が加わり、帰国後にそれぞれ天台宗と真言宗を開いた(最澄と空海の入唐)。唐からは鑑真が、何度もの失敗の末に来日している。

だが、その航海は命がけだった。一行は数百人、4隻の船に分かれて乗るのが普通で、「よつのふね」とも呼ばれた。初めのころは朝鮮半島の沿岸を伝う航路をとったが、新羅との関係が悪くなると、九州から東シナ海を一気に横切る航路をとるようになった。船の造りも航海の技術も未熟で、嵐に遭って沈む船、遠く南の島々や唐の南の海岸に流される船が後を絶たなかった。たどり着けずに命を落とした者も多い。

平城宮跡歴史公園の復元遣唐使船
平城宮跡歴史公園の復元遣唐使船Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

838年に出発した使節を最後に、派遣はしばらく途絶えた。この使節に同行した僧円仁は、唐で10年近くを過ごし、その旅の記録を詳しく残している(円仁の入唐求法)。それから半世紀あまりがたった894年、朝廷は久しぶりに遣唐使を送ることを決め、大使に文人で学者の菅原道真を任じた。

ところが任命の翌月、道真は、派遣するかどうかを公卿たちで改めて議論してほしいと申し出た。根拠にしたのは、唐に長く滞在していた日本の僧、中瓘から届いた報告である。そこには、唐の国内が乱れ、衰えている様子が記されていた。唐では870年代から大規模な農民の反乱が起き、都の長安が反乱軍に占領されるなど、皇帝の権威は地に落ちていた。道真は、これまで使節が海の上で命を落とし、あるいは賊に襲われてきたことを挙げ、唐の現状を考えれば、危険を冒して使節を送る意味は薄いと説いたのである。

吉備真備の肖像(菊池容斎画)
吉備真備の肖像(菊池容斎画)Wikimedia Commons Public domain

この申し出の後、遣唐使が実際に送られることはなかった。ただし、正式に「廃止」が決まった記録は無い。道真はその後も数年間、遣唐大使の肩書を持ち続けている。派遣が先送りされたまま立ち消えになった、というのが実際に近いとみられている。13年後の907年、唐そのものが滅びた(唐の滅亡)。

遣唐使が途絶えても、大陸との行き来がなくなったわけではない。9世紀の半ばから、唐や新羅の商人の船が博多へ頻繁にやって来るようになり、朝廷は大宰府を通じて彼らと取引し、香料や薬、陶磁器、書物などの「唐物」を手に入れた。僧たちも商人の船に便乗して大陸へ渡った。国が多くの費用をかけ、大勢の命を危険にさらして使節を送らなくても、欲しいものは手に入るようになっていたのである。遣唐使の終わりは、交流の終わりではなく、交流の形が国の使節から民間の商人へと移ったことを意味していた。

この後の10世紀から11世紀にかけて、日本では仮名が広く使われるようになり、905年には天皇の命で初めての和歌の選集、『古今和歌集』が編まれた。やがて仮名で書かれた日記や物語が花開く。こうした文化は「国風文化」と呼ばれ、遣唐使の停止で大陸の影響が薄れ、日本独自の文化が育った、と長く説明されてきた。しかし近年は、その見方に修正が加えられている。唐物はこの時代の貴族たちに熱心に求められ、漢詩や漢文は教養の中心であり続けた。大陸の文化を学び尽くし、取り入れたうえで、それを自分たちの感覚で組み替える段階に入った、とみるほうが実態に近いとされる。

『古今和歌集』に関わる図版:Kokin Wakashu Genei
『古今和歌集』Wikimedia Commons Public domain

道真自身は、その後右大臣まで昇ったが、901年に藤原氏との争いの中で大宰府へ左遷され、2年後に同地で亡くなった。のちに天神として祀られ、学問の神として今日まで信仰を集めている。遣唐使をめぐる彼の申し出は、大陸の制度を写す時代から、自分の形を作る時代への節目として、日本史の中で記憶されている。

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