ビールとニンカシへの讃歌
概要
粘土板に書かれた、醸造の女神への讃歌。同時に、ビールの作り方の手順書でもある。大麦を発芽させ、パン(バッピル)に焼き、砕いて水に浸し、発酵させ、濾す。文字を持たない者でも、歌として覚えられる。当時、ビールは日常の飲み物であり、そして労働の対価だった。ウルクの粘土板に、労働者への配給として、日に一定量のビールが記録されている。ストローで飲む。濾しきれない殻を避けるためである。
場所
30.96°N 46.10°E · イラク・ジーカール県
本文
紀元前1800年頃のメソポタミアの粘土板に、醸造の女神ニンカシを讃える歌が書かれている。ニンカシの名は「口を満たす女主人」と訳されることがある。神話『エンキとニンフルサグ』では、病に倒れた知恵の神エンキの体の痛む部分を癒やすために生まれた神々の一柱として、口を受け持つ女神として現れる。ビールの女神が口の神であるのは、いかにもふさわしい。
讃歌は女神に呼びかける形で進む。汝は大きな桶で麦芽を扱う者、汝は濾す桶に甘い麦汁を注ぐ者、その流れはティグリスとユーフラテスのようだ、といった具合である。そしてこの歌は、讃えながら同時に、ビールの作り方を順に述べている。神への賛美と醸造の手順書が、一つの歌になっているのである。

歌から読み取れる手順はこうである。まず大麦を水に浸して芽を出させ、麦芽にする。それを乾かし、バッピルと呼ばれる硬いパンに焼く。粉のままではなくパンにするのは、保存と持ち運びのためと考えられている。次にバッピルを砕いて水に浸し、ナツメヤシの蜜などで甘みを加え、発酵させる。酵母という考えは無かったが、容器に残った前の仕込みや空気から菌が入り、発酵が進んだのだろう。最後に濾過の桶で濾す。それでも殻やかすは残った。歌詞の言葉には解釈の分かれる箇所もあり、細部の手順については研究者の間で読み方に幅がある。
なぜ手順を歌にしたのか。覚えるためだと考えられている。当時、文字を読み書きできたのは、訓練を受けたごく少数の書記だけだった。実際に醸造を担った人々、その多くは女性だったとされるが、彼らが文字を読めたとは限らない。歌なら覚えられ、順序も崩れにくい。インドのヴェーダの韻文や、各地の農作業の暦を歌った唄のように、記憶のための形式は世界のあちこちにある。

メソポタミアで、ビールはぜいたく品ではなく、毎日の飲み物だった。川の水は汚れやすい。煮る工程を経て、アルコールと酸を含むビールは、比較的安全な飲み物だったという説明がある。ただし、水より安全だから飲んだという言い方は単純化しすぎだとする批判もあり、栄養と味と習慣が合わさった結果と見るほうがよいだろう。
ビールは労働の対価でもあった。神殿や王宮の粘土板には、働き手に大麦や油とともにビールを配った記録が大量に残る。量は身分や仕事によって違い、高位の者ほど多かった。さらにさかのぼれば、ウルク。都市というものの始まりで見つかった最古級の文字の粘土板(紀元前3300年から前3100年頃)の中身は、大半が帳簿である。そこにはビールの壺をかたどった記号が繰り返し現れる。文字(楔形文字の成立)は、大麦とビールの出し入れを記録するために生まれた面があった。
法もビールに目を配っていた。ハンムラビ法典(紀元前1750年頃)には、居酒屋をめぐる条文がある。第108条では、ビールを売る女が代金の大麦を受け取らずに銀を求めたり、大麦に対してビールの量を減らしたりすれば、水に投げ込まれる。第109条では、店に謀反を企む者が集まっているのに捕らえて突き出さなければ、死刑になる。第110条では、神殿に仕える女性が居酒屋を開いたり、飲みに入ったりすれば、焼き殺される。居酒屋の多くは女性が営み、しかも政治的に危うい場所と見られていたことが、ここから読み取れる。
ビールは物語の中でも、人を人にするものとして描かれた。『ギルガメシュ叙事詩』の古バビロニア版では、荒野で獣とともに暮らしていた野人エンキドゥが、パンを食べ、ビールを7杯飲んで陽気に歌い出し、体を洗って人間の仲間入りをする。英雄ギルガメシュが不死を求めて旅する途中で出会うのも、海辺で酒を商う女シドゥリである。シュメールの王名表には、クババという居酒屋の女主人がキシュの王になったという記事まである。伝承の域を出ないが、酒を商う女性が物語に繰り返し登場すること自体が、ビールと女性の結びつきの深さを物語っている。
当時のビールは、表面に殻が浮き、底にかすが沈んでいた。人々は長い管を壺に差し込み、真ん中の澄んだ部分を吸って飲んだ。シュメールやエジプトの図像には、大きな壺を囲んで管で飲む人々が描かれている。ウルの王墓からは、金と青金石(ラピスラズリ)で飾った飲み管も見つかっている。
ビールはその後も各地の暮らしに根を下ろした。エジプトでは、ギザのピラミッド近くの労働者の町や、王家の谷の墓を造った職人の村デイル・エル=メディーナの記録に、パンとビールの配給が残る。中世ヨーロッパでは修道院が醸造の技術を磨いた。苦みと保存性を与えるホップは9世紀の記録に現れ、12世紀以降しだいに広まった。日持ちするビールは遠くへ運べるようになり、ハンザ同盟の商人たちの大事な商品になった。1516年、バイエルンでは、ビールの材料を大麦とホップと水に限る決まりが出された。品質を守るためとされるが、パンの原料になる小麦やライ麦をビールに回させないため、という狙いもあったと説明される。
1989年、サンフランシスコの醸造所の経営者フリッツ・メイタグは、人類学者ソロモン・カッツらの助言を受け、ニンカシへの讃歌に書かれた手順に沿ってビールを再現した。バッピルを焼いて砕き、ナツメヤシで甘みを付けて発酵させた飲み物は、酸味と甘みのあるものになったという。4000年前の歌に込められた手順は、いまでも実際に飲めるものを作り出せた。歌は女神への祈りであると同時に、確かに台所の覚え書きでもあったのである。