ウルのゲーム盤と骰子

概要
ウルの王墓から、貝殻と青金石を象嵌した盤が5面出土した。20の枡が十字に並ぶ。動かす数は、四面体の骰子で決める。ルールは長く不明だったが、大英博物館の学芸員が、紀元前177年の粘土板に書かれた遊び方の記述を解読して、復元した。同じ盤が、エジプトからインドまでの遺跡に出る。船乗りと商人が運んだ。人が最初に作った道具の中に、生きるためではないものが、これだけ古くからある。
場所
30.96°N 46.10°E · イラク・ジーカール県
本文
1922年から1934年にかけて、イギリスの考古学者レナード・ウーリーは、メソポタミア南部の古代都市ウルを発掘した。紀元前2600年ごろから後の「王墓」と呼ばれる一群の墓からは、金の兜や冠、牛の頭を飾った竪琴、そして主人とともに葬られた数十人の従者や楽人や兵士の骨が見つかった。ウーリーは、彼らが毒を飲んで静かに死に就いたと考えたが、近年、骨をコンピューター断層撮影で調べたところ、頭を武器で打たれた跡が見つかり、殺された可能性が指摘されている。この王墓から、遊戯の盤が五面出てきた。
盤は木の板に、貝殻、青いラピスラズリ、赤い石灰岩をはめ込んで飾ったもので、二十の枡が並ぶ。三列四段の十二枡の大きな四角と、三列二段の六枡の小さな四角を、二枡の細い橋でつないだ形である。いちばん有名な一面は、ロンドンの大英博物館にある。駒は白と黒が七つずつ。動かす数を決めるのは、三角錐の形をした四面体の骰子で、四つの角のうち二つに印が付いている。これを四つ振って、印が上を向いた数だけ進む。進める数は零から四で、出やすさには偏りがある。二が最も出やすく、零と四はめったに出ない。

遊び方は長く分からなかった。手がかりは思わぬところにあった。1980年代、大英博物館の学芸員アーヴィング・フィンケルは、収蔵庫に眠っていた一枚の粘土板を読み解いた。紀元前177年にバビロンの書記イッティ・マルドゥク・バラートゥが書き写したもので、王墓の時代から二千年以上も後のものだが、そこにこの盤の遊び方が記されていた。盤の枡には星座が割り当てられ、遊びは占いとも結びついていた。
フィンケルは、この記述と盤の形から、遊び方を組み立て直した。二人がそれぞれ七つの駒を盤の端から入れ、決まった道筋をたどらせて、反対側から出す。骰子の目の数だけ進み、相手の駒がいる枡に止まれば、その駒を盤から追い出して振り出しに戻させる。花の模様が描かれた五つの枡に止まれば、もう一度振れる。そこにいる駒は取られない。七つの駒を先にすべて出し切ったほうが勝ちである。駒を競わせて進め、ぶつかれば追い出すという作りは、のちのバックギャモンによく似ており、その遠い祖先の一つと考えられている。
同じ形の盤は、驚くほど広い範囲から出ている。シリアやレバノン、キプロスやクレタ、エジプトでは、ツタンカーメンの墓(ツタンカーメン王墓の発見)の副葬品の遊戯盤の裏側にも、二十枡の盤が刻まれていた。東はイラン東部の都市遺跡シャフリ・ソフタから、インダス川の流域(インダス文明)にまで、似た盤が見つかっている。紀元前3千年紀から紀元後1千年紀まで、三千年以上にわたって遊ばれたことになる。船乗りや隊商の商人が、盤と遊び方を運んでいったのだろう。フィンケルは、南インドのコーチンに暮らしていたユダヤ人の共同体が、20世紀の半ばまで、この遊びによく似た遊びを伝えていたことを突き止めている。

盤は、王墓の宝物としてだけ残ったのではない。大英博物館にあるアッシリアの宮殿の門を守った巨大な人面有翼の牛像の台座には、二十枡の盤が引っかき傷で刻まれている。門番の兵士が、退屈な見張りのあいまに石に盤を刻み、小石を駒にして遊んだのだと考えられている。王の権威を示すために作られた像に、名もない兵士の暇つぶしの跡が残っているのである。
紀元前3千年紀のメソポタミアの遺物の多くは、生きるため、あるいは支配するためのものである。農具、武器、器、印章、そして役所の記録。初期の楔形文字(楔形文字の成立)の粘土板の大半は、麦が何杯、羊が何頭、誰から誰へと書いた帳簿である。その中に、明らかに生きるためではない道具が、これほど古くからある。

骰子の起源は、さらに古い。羊や山羊のかかとの上にある距骨という小さな骨は、四つの面の形がそれぞれ違い、投げるとどれか一つの面を上にして止まる。新石器時代の遺跡からは、手を加えた距骨が見つかっている。ギリシアやローマでは、四つの距骨を投げて、出た面の組み合わせで点を競う遊びが盛んだった。ホメロスの『イリアス』(『イリアス』『オデュッセイア』の成立)には、英雄パトロクロスが少年のころ、この骨を使った遊びの争いで相手の子を殺してしまい、故郷を離れた、という話が出てくる。六つの面を持つ立方体の骰子も、シャフリ・ソフタなどで紀元前3千年紀のものが見つかっている。向かい合う面の目を足すと七になる並べ方は、のちに標準となり、いまも変わらない。
遊びと、賭けと、占いは、古い時代には分かれていなかった。骰子を振るのは、人には決められないことを、人の手の届かないものに決めさせる行いである。だからそれは神の意志を問う占いであり、くじであり、賭けであり、そして遊びでもあった。オランダの歴史家ホイジンガは1938年の『ホモ・ルーデンス』で、遊びは文化よりも古く、祭りも法も戦争も詩も、決められた場所と時間、守るべき規則、日常からの区切りという遊びの形を持っている、と論じた。

フィンケルが復元した遊び方で実際に遊んでみると、これがなかなか面白い。運に左右されながらも、どの駒を動かすか、いつ危険を冒して相手の駒を追い出しにいくかを考える余地がある。大英博物館で彼が来館者と対戦してみせる様子は映像になり、多くの人に見られた。四千六百年前に人が作った遊びが、いまもそのまま遊べるのである。