人物

アルフレド・ドレフュス

Alfred Dreyfus
AD1859年10月9日 – AD1935年7月12日(享年75)
フランス第三共和政重要度 4

概要

アルザスのユダヤ人の紡績業者の子。ドイツに取られたアルザスを出てフランスの士官に。1894年、参謀本部にいた唯一のユダヤ人。逮捕、軍籍剥奪の式(剣を折られ、群衆が「ユダヤ人に死を」)、悪魔島で4年半、独房。1899年再審で有罪、特赦。1906年、無罪。少佐に復帰した。第一次大戦に出た。事件について、自分では多くを語らなかった。

関わったできごと(1)

ドレフュス事件AD1894年12月22日 · 有罪にされた

本文

アルフレド・ドレフュスは、1859年10月9日、フランス東部アルザス地方のミュルーズで、ユダヤ人の綿紡績業者の末の息子として生まれた。1871年、普仏戦争に負けたフランスはアルザスをドイツに割譲した。ドレフュス家はフランス国籍を選び、父と兄はミュルーズに残って工場を守り、アルフレドはフランス本土で教育を受けた。故郷を奪われた少年は、軍人になってフランスに尽くそうと決めたという。

アルフレド・ドレフュスの肖像
アルフレド・ドレフュスの肖像Wikimedia Commons Henri Roger-Viollet · Public domain

名門の理工科学校(エコール・ポリテクニーク)を出て砲兵の士官となり、1889年に大尉に昇進した。1890年、ダイヤモンド商の娘リュシー・アダマールと結婚した。陸軍大学を優秀な成績で終え、1893年から参謀本部で見習いの将校として勤めた。参謀本部でただ一人のユダヤ人だった。裕福で、口数が少なく、打ち解けない人柄は、同僚から好かれなかった。

1894年、参謀本部の情報部は、パリのドイツ大使館のくずかごから、フランス軍の機密をドイツに売り渡そうとする手紙(明細書)を手に入れた。筆跡が似ている、砲兵の知識がある、という薄い根拠で、疑いはドレフュスに向けられた。10月15日、参謀本部に呼び出されたドレフュスは、パティ・ド・クラム少佐の口述する文章を書き取らされた。筆跡を比べるためだった。そしてその場で逮捕された。彼は無実を訴え続けた。

ドレフュスの軍籍剥奪式
ドレフュスの軍籍剥奪式Wikimedia Commons Henri Meyer · Public domain

12月、非公開の軍法会議で、弁護側にも見せられない「秘密の資料」が判事に渡され、有罪の判決が下った。1895年1月5日、陸軍士官学校の中庭で、軍籍を剥ぐ儀式が行われた。肩章と飾りをむしり取られ、剣を折られるあいだ、ドレフュスは「私は無実だ。フランス万歳、軍隊万歳」と叫んだ。柵の外の群衆からは、ユダヤ人に死を、という声が上がった。この場に居合わせたウィーンの新聞記者テオドール・ヘルツルは、のちにユダヤ人の国家を求める運動を始めることになる。

1895年4月、ドレフュスは南米フランス領ギアナ沖の悪魔島に送られた。小さな岩の島で、看守たちは彼と話すことを禁じられた。1896年、脱走の企てがあるという偽の噂が流れると、夜のあいだ両足を寝台の鉄の枠に固定された。彼は日記を書き、妻に手紙を書き続けたが、本国で自分をめぐって何が起きているのか、ほとんど知らされなかった。

本国では、兄マチューと妻リュシーが再審を求めて動いていた。1896年、情報部長に就いたピカール中佐が、真犯人は別の将校エステラジーだと突き止めた。しかし軍の上層部は誤りを認めず、ピカールを左遷し、エステラジーを軍法会議で無罪にした。1898年1月、作家エミール・ゾラが新聞に大統領宛ての公開状「私は告発する」を載せ、事件はフランスを二つに割る政治の争いになった(ドレフュス事件)。

ドレフュス事件に関わる図版:Alfred Dreyfus (1859-1935) - photo originale
ドレフュス事件Wikimedia Commons Aron Gerschel · Public domain

1898年夏、ドレフュスの有罪を補強する文書が情報部のアンリ中佐による偽造だったことが発覚し、アンリは獄中で自殺した。再審が決まり、1899年6月、ドレフュスは4年あまりを過ごした悪魔島からフランスに戻された。だがブルターニュのレンヌで開かれた再度の軍法会議は、9月、情状酌量つきで再び有罪とし、禁錮10年を言い渡した。10日後、大統領ルーベは特赦を与えた。ドレフュスは疲れ果てており、無実の訴えは続けると述べてこれを受け入れた。支持者の中には、最後まで戦うべきだったと不満を抱く者もいた。

1906年7月12日、最高裁判所にあたる破毀院がレンヌの判決を破棄し、ドレフュスの無罪が確定した。彼は少佐として軍に復帰し、レジオン・ドヌール勲章を受けた。1908年、ゾラの遺骸をパンテオンに移す式典で、反ドレフュス派の記者に銃で撃たれ、腕を負傷した。撃った男は裁判で無罪になった。

1899年、雑誌『ヴァニティ・フェア』に掲載されたドレフュスの肖像画(ジャン・バティスト・ギュト画)
1899年、雑誌『ヴァニティ・フェア』に掲載されたドレフュスの肖像画(ジャン・バティスト・ギュト画)Wikimedia Commons Alfred_Dreyfus,_Vanity_Fair,_1899-09-07.jpg : "JB GUTH" (Jean Baptiste Guth) derivative work: Londonjackbooks ( talk ) · Public domain

第一次世界大戦が始まると、50代半ばのドレフュスは再び軍務に就き、砲兵の将校としてヴェルダンなどの戦線に立ち、中佐に昇進した。1935年7月12日、パリで死んだ。75歳だった。自分の事件について公の場で多くを語ることはなかった。彼の孫娘マドレーヌは、第二次世界大戦中にフランスのレジスタンスに加わって捕らえられ、1944年、アウシュヴィッツで死んだ。

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