ウガリットの文字

概要
楔形文字の形で、30の音だけを表す文字が作られた。文字の数を音の数まで減らす発想が、フェニキア文字と並ぶもう一つの源流になる。
場所
35.60°N 35.78°E · シリア・ラタキア県
本文
1928年、シリアの地中海岸、ラタキアの北の入り江で、畑を耕していた農民の犂が石にぶつかった。掘ってみると、古い墓の石組みが出てきた。翌年からフランスの考古学者クロード・シェフェールが近くの丘ラス・シャムラを掘りはじめ、そこが古代の港市ウガリットの跡だと分かった。
ウガリットは紀元前2千年紀の後半、東地中海の交易の十字路として栄えた町だった。南にはエジプト、北にはヒッタイト(ヒッタイト)、東にはメソポタミアの国々、西の海の向こうにはキプロスとクレタ。王は時に応じてエジプトやヒッタイトに臣従しながら、銅や錫、穀物、木材、紫の染料で染めた布、オリーブ油を扱って富を築いた。エジプトのアマルナで見つかった外交文書の中にも、ウガリットの王の手紙が含まれている(アクエンアテンの宗教改革)。
宮殿と町の家々からは、何千枚もの粘土板が見つかった。国際語だったアッカド語の楔形文字で書いた外交文書や契約書のほかに、フリ語、ヒッタイト語、エジプトの文字、キプロスの文字まであり、書記たちが何か国語も使い分けていたことが分かる。その中に、誰も見たことのない文字で書かれた粘土板が混じっていた。
見た目は楔形文字に似ている。粘土に葦の筆を押しつけて楔の形の刻みをつける、という書き方は同じだ。だが使われている記号は30ほどしかない。メソポタミアの楔形文字(楔形文字の成立)は、一つの記号が音節や語そのものを表し、何百もの記号を覚えなければ読み書きできなかった。記号が30しかないなら、一つの記号が一つの子音を表すアルファベットに違いない。1930年、ドイツのハンス・バウアー、フランスのエドゥアール・ドルムとシャルル・ヴィロロー、3人の学者がほぼ同時に取り組み、わずか1年ほどで解読を果たした。書かれていたのは、ヘブライ語やフェニキア語に近いセム系の言葉だった。

記号の数は30。ほとんどは一つの子音を表すが、声門を閉じる音(アレフ)だけは、後に続く母音によって三つの記号に書き分けられた。並びの末尾に置かれたいくつかの記号は後から加えられたもので、フリ語など外国の言葉を書くための工夫だったとみる説がある。いくつかの粘土板には、記号を決まった順に並べた一覧が刻まれていた。その順序は、のちのフェニキア文字の「アレフ、ベート、ギメル」の並びと大筋で同じだった。いまのアルファベットの並び順は、少なくともこの時代までさかのぼることになる。ほかに、南アラビアの文字の順序で並べた一覧も見つかっていて、当時の東地中海には二つの並べ方があったことも分かった。
アルファベットという考え方そのものは、ウガリットで生まれたのではないらしい。それより何百年か前、シナイ半島のエジプトの鉱山やカナンの地で、エジプトの聖刻文字の形を借りて子音だけを書く線の文字が作られていた。ウガリットの書記たちは、その発想を知ったうえで、メソポタミアから伝わった粘土板と楔の書き方に合わせて作り直したと考えられている。線の文字のほうはやがてフェニキア文字になり(アルファベットの成立)、ギリシア文字、ラテン文字へとつながった。ウガリットの楔形のアルファベットは、町とともに途絶えた。

この文字で書かれた粘土板が残したものは大きい。嵐の神バアルが海の神ヤムや死の神モトと戦う神話、子を求める王キルタの物語、若者アクハトの物語。神々の長エルと女神アシェラ。旧約聖書に名前だけが出てくるカナンの神々が、ここで初めて自分たちの言葉で語りはじめた。聖書の詩の言い回しの中に、ウガリットの詩と同じ表現がいくつも見つかり、聖書の研究を大きく変えた。
紀元前1200年ごろ、東地中海の青銅器時代の国々は次々に崩れていく(海の民の侵入と青銅器時代の終わり)。ウガリットの最後の王アンムラピの時代の粘土板には、敵の船が現れて町々が焼かれていると訴え、助けを求める手紙が残っている。ヒッタイトの大王もまた、ウガリットに兵と船を出せと迫っていた。紀元前1185年ごろ、ウガリットは焼け落ち、二度と町として再建されなかった。焼けた家々の中から、送られずに終わったのかもしれない手紙の粘土板も見つかっている。
紙や羊皮紙に書かれた文書は火に焼かれて消えるが、粘土板は火に焼かれて固くなり、かえって残る。3000年あまり土の中に眠っていた30の記号が、アルファベットの歴史の早い一章を教えてくれた。