人物

馮道

Feng Dao
AD882年 – AD954年(享年72・推定)
五代十国重要度 3

概要

五つの王朝、十一人の皇帝に宰相として仕えた。「長楽老」と自称した。欧陽脩と司馬光は恥知らずと書いたが、その間に儒教の経典を木版で刊行させ、民を守った。印刷の歴史では大きな名になる。

所属

五代十国

関わったできごと(1)

馮道の儒教経典刊行AD953年 · 宰相

本文

馮道は、882年、唐の末期に、河北の瀛州景城の農家に生まれた。字は可道という。家は豊かではなく、彼は畑を耕しながら書物を読み、衣食の粗末さを気にかけない若者だったと伝えられる。彼が成人するころ、唐は各地の節度使と呼ばれる軍閥に分割されて力を失い、907年には滅びた。それからの半世紀あまり、華北では五つの王朝が次々に興っては倒れ、南では十ほどの国が並び立った。五代十国と呼ばれる時代である。

馮道
馮道Wikimedia Commons Jin Guliang (original 1694) · Public domain

馮道が最初に仕えたのは、幽州(いまの北京のあたり)を支配していた劉守光だった。劉守光が無謀な戦を起こそうとしたとき、馮道はそれを諫めて怒りを買い、獄につながれた。助け出された彼は、山西に拠る晋王李存勗のもとに身を寄せ、文書をつかさどる役に就いた。彼の書く文章は評判を呼んだ。923年、李存勗は後梁を滅ぼして後唐を建てた。

後唐の2代目の皇帝の明宗は、軍人の出で文字が読めなかった。927年、明宗は馮道を宰相に取り立てた。馮道は、皇帝に昔の書物の言葉を読んで聞かせ、政治の手本を語った。ある年、豊作が続いて天下が穏やかになったとき、馮道は明宗に、穀物の値が高ければ農民は飢え、安ければ農民は痛めつけられると説き、唐の詩人聶夷中が農民の苦しみを詠んだ詩を読み聞かせた。明宗はその詩を書き写させ、常にそばに置いて口ずさんだという。

その後、王朝はめまぐるしく変わった。後唐は内紛で倒れて後晋に代わり、後晋は北方の契丹(契丹(遼)の建国)に滅ぼされ、契丹が退いたあとには後漢が、その後漢も数年で倒れて後周が興った。馮道は、後唐、後晋、契丹、後漢、後周と、王朝が代わるたびに新しい主君に迎えられ、宰相などの最高の位にあり続けた。仕えた王朝は契丹を含めて5つ、皇帝の家の姓は8つ、皇帝は11人にのぼるとされる。

947年、契丹の皇帝耶律徳光が後晋の都の開封に入ったとき、馮道は自ら会いに出向いた。なぜ来たのかと問われると、城も兵も無いのに、どうして来ないでいられましょうと答えた。お前はどういう老人かと問われると、才も徳も無い愚かな老人ですと答え、皇帝は笑って彼に高い位を与えた。皇帝が、天下の民をどうすれば救えるかと尋ねると、馮道は、いまは仏が現れても救えません、ただ陛下だけが救えるのです、と答えた。のちの歴史家は、この言葉によって契丹の兵が漢人の民を殺すことを控えたので、人々はそれを馮道の功績だと言った、と書いている。

晩年、馮道は『長楽老自叙』という短い自伝を書き、自らを長楽老と称した。そこには、自分がこれまで仕えた王朝と受けた官職が誇らしげに並べられ、家では親に孝を尽くし、国には忠を尽くし、口に道に外れた言葉を出さず、家に不義の財を入れなかった、と書かれていた。戦乱の中で、彼は自分の俸給を一族と分け合い、略奪された女性を買い戻して親元に帰したこともあったと伝えられる。

彼の名を後世に残したもう一つの仕事は、印刷だった。932年、後唐の宰相だった馮道らは、儒教の経典を木の板に彫って印刷し、国の学校で刊行することを願い出た。それまで経典は手で書き写すしかなく、写すたびに誤りが入り込んでいた。国子監の学者たちが本文を校訂し、版木が彫られた。王朝が四度代わるあいだも作業は続けられ、21年後の953年、後周の時代に、九経と呼ばれる経典がそろって完成した(馮道の儒教経典刊行)。仏典や暦はそれ以前から木版で刷られていたが、国が正式に校訂した儒教の経典を大量に刷って世に広めたのは、これが初めてだった。正しい本文が安く手に入るようになり、続く宋の時代の印刷文化の土台になった(宋の活字と羅針盤)。

954年、後周の若い皇帝柴栄(柴栄(後周世宗))は、北漢を討つために自ら出陣しようとした。73歳の馮道は強く反対した。柴栄が、唐の太宗も自ら出陣して天下を平らげたと言うと、馮道は、陛下が唐の太宗になれるとは限りませんと答えた。柴栄が、自分の大軍で北漢を討つのは山で卵を押しつぶすようなものだと言うと、馮道は、陛下が山になれるとは限りませんと言い返したという。柴栄は怒って、彼を先帝の陵墓を造る役に回して出陣し、勝って帰った。そのとき、馮道はすでに亡くなっていた。その6年後、後周の将軍の趙匡胤(宋の太祖)が宋を建て、五代の乱世は終わりに向かう(宋の成立)。

馮道の評価は、宋の時代に厳しいものになった。歴史家の欧陽脩は『新五代史』で、礼義廉恥は国を支える四つの綱だと説き、恥を知らずに次々と主を替え、それを自伝で誇った馮道を、恥知らずの典型として非難した。司馬光も『資治通鑑』で、臣下が主君を替えるのは妻が夫を替えるようなものだとして、彼を奸臣の最たる者と断じた。君主への忠節を重んじる宋の儒学の価値観からすれば、五つの王朝に仕えた男は許されなかったのである。

一方で、明の思想家李贄(李卓吾)は、馮道がいたからこそ戦乱の中で民が守られたのだと、彼を弁護した。王朝が代わっても、民は同じ民である。そう考えて生きたのかどうかは、馮道自身は書き残していない。ただ、彼が仕えた主君の誰よりも長く生き、乱世の中で戦を諫め、民の命を案じ、そして書物を後世に残したことは確かである。

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