できごと

コパンの階段碑文

Hieroglyphic Stairway of Copán
AD755年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD755年の版図を描いています(12勢力)。

概要

63段、2200の文字。マヤで最も長い碑文。コパンの16人の王の歴史。第15代の王が建てた。17年前、第13代の王が隣国キリグアに捕えられて首を斬られ、その屈辱を書き直した石。1世紀後、コパンは捨てられた。

場所

コパン
14.84°N -89.14°E · ホンジュラス

本文

コパンは、いまのホンジュラスの西の端、グアテマラとの国境に近い谷にあるマヤの都市である。古典期の碑文では「シュクプ」と呼ばれていたとみられる。谷には紀元前1000年ごろから人が住んでいたが、王朝が始まるのは426年、キニチ・ヤシュ・クック・モという王からである。後代の碑文は彼を王朝の始祖として繰り返し描き、遠い土地から来た人として語る。墓とみられる骨の分析からは、彼がコパン生まれではなく、ティカルのあるペテン地方あたりから来た可能性が指摘されている。それから400年ほどのあいだに、16人の王が続いた(マヤ古典期)。

コパンの最盛期を築いたのは、第13代の王ワシャクラフン・ウバフ・カウィール、かつて「18ウサギ」と呼ばれた王である。695年から43年ほど在位し、大広場に立体的な彫刻で飾られた石碑をいくつも立て、球技場を造り直した。コパンの石碑は、ほかのマヤ都市の平らな浮き彫りとは違い、柔らかい火山性の凝灰岩を深く彫り込んで、王の姿がほとんど丸彫りのように浮かび上がる。

石碑Mと神聖文字の階段(コパン)
石碑Mと神聖文字の階段(コパン)Wikimedia Commons Peter Andersen ( talk ) · CC BY 2.5

その王が、738年に突然の最期を迎える。北へ50キロほどのキリグアは、コパンに従う小さな町だった。ところがキリグアの王カック・ティリウ・チャン・ヨパートが、738年、18ウサギを捕え、首を斬った。キリグアの碑文はこの出来事を誇らしげに記している。キリグアの背後には、ティカルと争っていた大国カラクムルがいたとみる研究者もいる(カラクムルとティカルの戦争)。不思議なことに、コパンの町そのものが攻め落とされた跡は無く、王一人が捕えられた事件だったらしい。

王を失ったコパンは、しばらく大きな記念碑を建てなかった。第14代の王カック・ホプラフ・チャン・カウィールの時代には、「ポポル・ナフ(むしろの家)」と呼ばれる建物が造られた。貴族たちが集まって話し合う場所だったと考えられており、王の権威が揺らぎ、有力な家々と力を分け合う必要が生じたことを示すとみられている。

神聖文字の階段近景
神聖文字の階段近景Wikimedia Commons Elemaki · CC BY 2.5

そして第15代の王カック・イピヤフ・チャン・カウィールが、755年に階段の碑文を完成させた。神殿のピラミッドの正面を上る63段の階段の、一段ごとの蹴上げにびっしりと文字を刻んだもので、文字の数はおよそ2200。マヤで知られている最も長い碑文である。階段の途中には、戦士の装いをした歴代の王の座像が置かれた。土台になる古い階段は18ウサギの時代に造られており、第15代の王がそれを大きく作り直して、王朝の始まりからの16人の王の名と即位と業績を刻んだと考えられている。屈辱の死を遂げた先々代の王もその列に並べ、王朝が途切れずに続いてきたことを、町のいちばん目立つ場所で示したのである。

ただ、この階段は完全には読めない。19世紀の末には大部分が崩れ落ちていて、1930年代にアメリカのカーネギー研究所が積み直したとき、文字の意味がまだ分からなかったため、下の十数段を除いて石の順番がばらばらになってしまった。マヤ文字の解読(マヤ文字の解読)が大きく進んだのは1970年代から80年代で、研究者は崩れる前の写真や記録を手がかりに、いまも文の順番を組み立て直している。

祭壇Q
祭壇QWikimedia Commons Henry Sandham · Public domain

第16代の王ヤシュ・パサフ・チャン・ヨパートは763年に即位し、776年に「祭壇Q」を奉納した。四角い石の四つの側面に16人の王が座り、始祖のキニチ・ヤシュ・クック・モが第16代の王に王笏を手渡す場面が刻まれている。400年の王統を一枚の絵にまとめたもので、階段の碑文と同じく、王朝の正しさを訴える石だった。

しかしコパンの谷は限界に近づいていた。8世紀の末には人口が2万から2万5000ほどにふくれ上がり、谷の斜面の森は切り払われ、土が流れた。この時期の墓から出る骨には、栄養の不足や病気の跡が多いという研究がある。822年に刻み始められた「祭壇L」は未完成のまま残され、これが王朝の最後の記念碑になった。人々はその後も少しずつ減りながら谷に住み続けたが、王の都としてのコパンは終わった。マヤ低地の各地で同じころに起きた衰退の一つである(マヤ低地の崩壊)。

ティカルの神殿I(グアテマラ、マヤ古典期の遺跡)
ティカルの神殿I(グアテマラ、マヤ古典期の遺跡)Wikimedia Commons Maurice Marcellin · Public domain

1576年、スペインの役人ディエゴ・ガルシア・デ・パラシオがこの廃墟について国王に報告している。1839年にはアメリカの外交官スティーヴンズと画家キャザーウッドが訪れ、土地の持ち主から遺跡を50ドルで買い取ったと書き残した。キャザーウッドの精密な素描で、コパンは世界に知られる。その後イギリスのモーズリーが石膏型を取り、ハーヴァード大学のピーボディ博物館が発掘を進めた。1980年に世界遺産となり、いまは雨から守るため、階段の上に大きな屋根がかけられている。

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