人物

イブン・ハルドゥーン

Ibn Khaldun
AD1332年 – AD1406年(享年74・推定)
マグリブ重要度 4

概要

王朝の興亡を連帯意識の盛衰で説明した。歴史を法則で捉えようとした最初期の人。

関わったできごと(1)

『歴史序説』AD1377年 · 著者

本文

1332年、北アフリカのチュニスに生まれた。一族はもともとアラビア半島南部から来たアラブで、何百年もアンダルス(イベリア半島)のセビーリャで名家として栄えたのち、キリスト教国の進出を逃れて海を渡ってきた。代々、王朝に仕えて政治や学問を担う家だった。少年の頃からクルアーン、法学、文法、詩、哲学を一流の学者について学んだ。

チュニスのイブン・ハルドゥーン像
チュニスのイブン・ハルドゥーン像Wikimedia Commons Kassus · CC BY 2.5

16歳のとき、黒死病が北アフリカを襲った(黒死病)。両親と、多くの師が死んだ。のちに彼は、文明そのものが、まるで呼び出されて応じたかのように縮んでいった、とこの頃を振り返っている。

20歳で、チュニスの王朝の書記として仕官した。そこから20年余り、北アフリカとアンダルスの王朝を渡り歩く。モロッコのフェスでは王の側近になったが、陰謀に加わった疑いで2年近く投獄された。釈放後はグラナダのナスル朝に移り、カスティーリャ王のもとへ使節として赴いた。王は、セビーリャにある彼の一族の旧領を返すから仕えないかと誘ったが、断っている。その後はアルジェリアのベジャイアで宰相を務め、砂漠のアラブやベルベルの部族の間を回って、王のために兵を集める役目も負った。

Volta della stanza della segnatura 02, filosofia
Wikimedia Commons Raphael · Public domain

その間に見たのは、王朝が次々に興っては崩れる姿だった。砂漠や山地から来た部族が、強い結束で古い王朝を倒す。新しい王朝は都に住み、宮廷を飾り、贅沢を覚える。やがて王は一族や仲間より雇い兵や官僚に頼るようになり、結束が失われたところで、また別の部族に倒される。彼自身、その渦の中で何度も主君を替え、何度も失脚した。

1375年、43歳のとき、政争に疲れたイブン・ハルドゥーンは、いまのアルジェリアの内陸にある小さな城、カルアト・イブン・サラーマに家族とともに引きこもった。ここで約4年を過ごし、世界の歴史を書く仕事に取りかかる。その序論として書き上げたのが『歴史序説』(ムカッディマ)である(『歴史序説』)。最初の稿は、わずか5か月で書いたと本人が記している。

『歴史序説』に関わる図版:La Muqaddima d'Ibn Khaldoun
『歴史序説』Wikimedia Commons Riad Salih · CC BY 4.0

序論の冒頭で、彼はそれまでの歴史家を批判した。伝えられた話を、ありうることかどうか確かめもせずに写している、というのである。たとえば、モーセが荒野で60万の兵を数えたという話について、それだけの軍勢を限られた土地で動かし、養うことができたかを考えれば疑わしい、と指摘した。出来事を並べるだけでは歴史とは呼べない。人間の社会がどういう性質を持ち、何が原因でどう変わるのかを知らなければ、ありうることとありえないことを見分けられない、と書いた。

その道具として立てたのが「アサビーヤ」である。血縁や、厳しい土地での共同の暮らしから生まれる仲間意識のことで、日本語では連帯意識や結束力と訳される。王朝はこの力によって興り、都の豊かな暮らしの中でそれが失われることで衰える。彼は、王朝はたいてい三代、およそ120年で寿命を迎えると見積もった。初代は砂漠の気風と結束を保ち、二代目はそれを見ながら育ち、三代目は豊かさの中で結束を忘れる、というのである。経済についても、税が重すぎると人々が働く意欲を失って税収がかえって減る、といった観察を残している。

イブン・ハルドゥーンが描かれた旧10ディナール紙幣
イブン・ハルドゥーンが描かれた旧10ディナール紙幣Wikimedia Commons lukas.zalewa · Public domain

1382年、彼は北アフリカを離れ、マムルーク朝の都カイロへ移った(マムルーク朝)。スルタンに迎えられ、マーリク派の大法官に任じられる。賄賂や縁故を嫌う厳格な裁き方は敵を作り、職を解かれては再任されることを繰り返した。1384年頃には、チュニスから呼び寄せた妻子を乗せた船が嵐で沈み、家族を一度に失っている。

1401年、69歳の時に、生涯で最も奇妙な出来事が起きる。中央アジアから西へ攻め込んできたティムールの軍が、シリアのダマスカスを包囲した(ティムール帝国の拡大)。カイロのスルタンとともに救援に来ていたイブン・ハルドゥーンは、スルタンが帰国した後、城内に残されていた。彼は城壁から綱で吊り下ろされてティムールの陣を訪ね、30日ほどそこに留まって何度も対話した。ティムールは北アフリカの地理を詳しく尋ね、文書にまとめるよう求めたという。イブン・ハルドゥーンはティムールを、論じることを好み、知っていることも知らないことも議論する、非常に聡明な人物として書き残している。その後ダマスカスは略奪され、彼はカイロへ戻った。

イブン・ハルドゥーンの自筆署名入り『歴史序説』写本
イブン・ハルドゥーンの自筆署名入り『歴史序説』写本Wikimedia Commons Ibn Khaldūn · Public domain

1406年、カイロで亡くなった。73歳だった。死の直前まで、大法官の職に就いていた。

『歴史序説』は、その後のイスラーム世界で長く広く読まれたわけではない。17世紀のオスマン帝国の学者たちが、自国の衰えを論じるために再び読み、19世紀にヨーロッパで翻訳されると、社会学や経済学の先駆として驚きをもって迎えられた。20世紀のイギリスの歴史家トインビーは、この種のものとしてはどの時代、どの国でも作られたことのない最も偉大な作品だ、と評している。

フェスの宮廷にいた頃、同じ北アフリカ出身の旅行家イブン・バットゥータが遠い国々の話をし、人々がそれを作り話だと噂した。そのとき宰相が、自分が見たことのないものを、ありえないと決めつけてはならない、と諭したという話を、イブン・ハルドゥーンは『歴史序説』に書き留めている。伝えられた話を鵜呑みにしないことと、知らないことを頭から否定しないこと。その二つの間で考え続けた人だった。

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