アンナ・コムネナ
概要
皇女にして歴史家。父の治世を書いた『アレクシアス』は、十字軍を東側から見た同時代の記録になる。
所属
東ローマ帝国関わったできごと(1)
『アレクシアス』AD1148年頃 · 著者本文
1083年12月1日、コンスタンティノープルの宮殿の「緋の産室」で生まれた。在位中の皇帝の子だけがここで生まれ、「緋色の生まれ」と呼ばれる。父は2年前に帝位を奪ったアレクシオス1世コムネノス、母は名門ドゥーカス家のエイレーネーで、アンナはその長女だった。

生まれてすぐ、前の王朝の皇子コンスタンティノス・ドゥーカスの許嫁にされた。彼は共同皇帝の地位にあり、アンナは将来の皇后として育てられた。だが1087年に弟ヨハネスが生まれると、父の後継は弟へ傾き、許嫁もやがて死んだ。1097年頃、アンナは軍人で学者肌のニケフォロス・ブリュエンニオスと結婚する。
学問への熱は並外れていた。のちの追悼演説によれば、両親が異教の詩を読むことを喜ばなかったので、古典の文法をひそかに学んだという。ギリシアの哲学、修辞学、天文学、医学に通じ、アリストテレスの注釈を学者たちに書かせる集まりの後ろ盾にもなった。

1118年8月、父が死の床につくと、母とアンナは夫ブリュエンニオスを帝位につけようと動いたとされる。だがヨハネスは先に宮殿を押さえ、ヨハネス2世として即位した。翌年、アンナは弟の暗殺を企てて露見したと、後世の史家コニアテスは書く。夫は加わらず、アンナは女に生まれた自分と男に生まれた夫を取り違えた自然を呪った、という言葉まで添えられている。罰は軽く、財産は没収されたがのちに返された。アンナは母が建てた修道院の近くで、宮廷から離れて暮らした。
夫は皇后エイレーネーの頼みで、アレクシオスの治世の歴史を書き始めていたが、1137年頃に途中で死んだ。アンナはその仕事を引き継ぎ、1148年頃までに『アレクシアス』15巻を書き上げる。父の若いころから1118年の死までを、同時代の証人として、ときには父の側近の話や公文書を使って記録した。序文で彼女は、30年にわたって世間から遠ざけられ、ひとり書いている、と嘆いている。

書かれているのは、崩れかけた帝国を父が立て直していく物語である。1071年のマンツィケルトの敗戦の後、小アジアの大半はトルコ系の勢力に奪われていた。即位したばかりの父は、アドリア海を渡ってきたノルマン人ロベール・ギスカールの軍に敗れ、北からはペチェネグ人に攻め込まれた。1091年、父がクマン人と組んでペチェネグ人を打ち破るまでを、アンナは手に汗握る筆で書いている。文章はホメロスやトゥキュディデスを引く古典風のギリシア語で、当時の話し言葉とは大きく離れていた。
第1回十字軍を、迎えた側から書いた数少ない史料になる。父がローマ教皇に求めたのは、セルジューク朝と戦う傭兵だった(十字軍の呼びかけ)。ところが届いたのは、数万の巡礼者と騎士の群れだった。アンナは隠者ペトルスの民衆の群れが小アジアで壊滅するさまを書き、ノルマン人の騎士たちを、粗野で貪欲で約束を守らない者として描いた。

とくに筆が冴えるのは、父の宿敵ボエモンの描写である。南イタリアのノルマン人で、背が高く、見た目は美しく、それでいて恐ろしい、と彼女は書く。十字軍の行く先で自分の国を築こうとするボエモンを、父は誓いで縛ろうとした。のちのアンティオキアの奪い合いは、その見立てが正しかったことを示している。西側の年代記とは、まるで違う十字軍が現れる。
医学の知識もあり、父の最期の病状を医師のように詳しく書いている。足の痛みと息苦しさ、医師たちの議論、皇后が夜通しそばを離れなかったこと。一方で、父をほめすぎているという批判も昔からある。年代の取り違えも少なくない。それでも、戦術、外交、宮廷の空気を内側から伝える書物は、ほかにほとんどない。

死んだのは1153年頃とされる。正確な年は分からない。
女性が書いた歴史書として、中世を通じてほとんど他に例がない。19世紀以降、『アレクシアス』は第1回十字軍のエルサレム占領に至る十字軍の研究に欠かせない史料として読まれてきた。半世紀後の第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪を知る私たちには、西の騎士への彼女の不信が、ただの偏見ではなかったようにも読める。