マイケル・ヴェントリス
概要
言語の才が異常だった。6歳でポーランド語の文法書を読み、スイスの学校でフランス語とドイツ語を身につけ、独学でスウェーデン語を覚えた。14歳のとき、アーサー・エヴァンズの講演で線文字Bの粘土板を見て、「まだ誰も読めないのですか」と尋ねた。本業は建築家である。空軍の航法士として従軍し、戦後、設計の仕事の合間に解読を進めた。1952年、ラジオでギリシア語説を発表した。1956年9月、深夜、高速道路でトラックに追突して死んだ。34歳。
関わったできごと(1)
線文字Bの解読AD1952年 · 解いた本文
マイケル・ジョージ・フランシス・ヴェントリスは1922年7月12日、イングランドのハートフォードシャーに生まれた。父エドワードはインドに勤めた陸軍の将校で、結核を患っており、一家は療養のためスイスで暮らした時期がある。母ドロシーはポーランド系の家の出で、美術と建築に深い関心を持ち、モダニズムの芸術家たちと付き合いがあった。

言葉に対する彼の才能は、幼いころから並外れていた。6歳でポーランド語の文法書を興味のままに読み通したと伝えられる。スイスの学校ではフランス語とドイツ語で授業を受け、スウェーデン語は独学で身につけた。のちにその力で、スウェーデンの学者とじかにやりとりしている。学校ではラテン語とギリシア語も学んだ。
1936年、14歳のとき、彼は学校の引率でロンドンの展示会を見に行った。ギリシアの考古学に関する展示で、クレタ島クノッソスの宮殿を発掘したアーサー・エヴァンズが講演した(クノッソスの宮殿)。85歳の老学者は、宮殿から出た粘土板と、そこに刻まれた「線文字B」と呼ばれる文字を紹介した。少年は手を挙げて尋ねた。それはまだ誰にも読めないのですか。エヴァンズは、そうだ、と答えた。

1940年、18歳の彼は、アメリカの考古学の学術誌に論文を送った。クレタの文書の言葉はエトルリア語ではないか、という説である。書き手が学生であることを、彼は伏せていた。同じ年、母が自ら命を絶った。戦争でポーランドの財産を失い、うつに沈んでいた。父もすでに亡く、彼は18歳でほとんど一人になった。
第二次世界大戦が続くなか、1942年に彼は空軍に入り、爆撃機の航法士になった。操縦士ではなく、位置を計算し地図を読む役を自ら選んだ。ドイツ語ができたので、戦後はドイツに駐留した。その合間にも、彼は解読の作業を続けていた。
復員後、彼はロンドンの建築の学校で学び、1948年に優秀な成績で卒業した。本業は建築家である。教育省で、爆撃で壊れた学校を建て直す仕事にあたった。工場で作った部材を組み立てる、新しい方式の学校づくりだった。
線文字Bは、およそ90の音節の記号と、人や動物や器を描いた絵のような記号、そして数を表す記号からなる。粘土板は本来、乾かしただけの消耗品の帳簿だったが、宮殿が火事で焼けたとき、一緒に焼かれて固まり、3000年あまりを生き延びた。焼け落ちた宮殿が、皮肉にも記録を残したのである。
解読に本腰を入れたのは1949年からだった。彼はまず、線文字Bに関心を持つ世界の研究者十数人に質問状を送った。この文字の言葉は何だと思うか、その根拠は。返ってきた答えを、彼は全員に配った。名もない若者が、自分で学者たちの協力の網を作ったのである。1951年からは作業の記録を謄写版で刷って配り始め、全部で20号に及んだ。仮説も、その根拠も、うまくいかなかった試みも、すべて書いた。
彼の中心の道具は「格子」と呼ばれる表だった。線文字Bが音節の文字なら、一つ一つの記号は「子音+母音」を表す。縦に子音、横に母音をとった表に記号を並べる。どの記号がどの音かは分からなくても、語尾の変わり方から、この記号とこの記号は同じ母音らしい、この二つは同じ子音らしい、という関係は推し量れる。彼はこの表を何度も作り直した。土台には、アメリカの古典学者アリス・コーバーの仕事があった。彼女は1940年代の後半に、語尾が規則的に変わる語の組を見つけ、格子の原型を作っていたが、1950年に43歳で病に倒れていた。ヴェントリスは彼女の仕事をはっきりと受け継いだ。
突破口は地名だった。クレタ島の地名は、昔から受け継がれている見込みが高い。格子から出てきた音の候補を地名に当てはめると、「コ・ノ・ソ」はクノッソス、「ア・ミ・ニ・ソ」はアムニソス、「トゥ・リ・ソ」はトゥリソスと読めた。合ったのである。その音で、ほかの語を読んでいくと、ギリシア語が現れた。
それは、彼が長く信じてきた説を捨てることを意味した。線文字Bの言葉はギリシア語ではない、というのが当時の常識であり、彼自身もそう考えていた。1952年6月の最後の作業記録で、彼はこの数週間の展開によって長く抱いてきた仮説を捨てざるをえなくなった、と書き、この考えはおそらく正気の沙汰とは思われないだろう、と添えた。7月1日、彼はラジオの番組でこれを発表した(線文字Bの解読)。
その放送を、ケンブリッジ大学のギリシア語学者ジョン・チャドウィックが聞いていた。戦争中に暗号の解読にたずさわり、ギリシア語の古い方言にも詳しい人だった。チャドウィックが手紙を書き、二人の協力が始まった。ヴェントリスの音の当て方は正しいが、そこから出てくるギリシア語は、知られているどの方言よりも古い。それを言語学として整えるのがチャドウィックの役目になった。1953年に二人は共著の論文を出した。同じ年、アメリカの考古学者ブレーゲンが、ギリシア本土のピュロスで見つけた新しい粘土板を、ヴェントリスの読み方で読んでみると、絵で描かれた三脚の器のそばに、ギリシア語で三脚を意味する語が書かれていた。解読は裏づけられた。
1955年、彼は建築の仕事を離れ、解読に専念しようとした。だが、古典学の正式な訓練を受けていない自分が学者の世界でどう生きるかに、迷いがあったともいわれる。1956年、彼はチャドウィックとの共著『ミケーネ・ギリシア語文書』を書き上げた。300枚を超える粘土板の文字を書き起こし、訳し、注をつけた大著である。
1956年9月6日の深夜、彼はロンドン北方の幹線道路を一人で車で走り、道ばたに止まっていたトラックに追突して即死した。34歳だった。共著書は、その数週間後に出版された。深夜の見通しのよい道だったことから、自ら命を絶ったのではないかという推測もくり返し語られてきたが、証拠はなく、検死は事故とした。チャドウィックはこうした推測を退け、彼の頭は驚くほど速く働き、自分の誤りを認めることを少しもためらわなかった、という趣旨の言葉でその人柄をたたえた。
ヴェントリスの解読で、ギリシア語の記録はホメロスよりも何百年もさかのぼることになった。線文字Bの粘土板は、ミュケナイの興りの時代、紀元前14世紀から13世紀ごろの宮殿の帳簿だった。そこに書かれていたのは、詩でも神話でも王の手柄話でもなかった。羊の頭数、油の配給、壊れた戦車の車輪の数である。ときおり、ポセイドンやゼウスといった神々への供え物の記録に、のちのギリシアの神々の名が現れる。最古のギリシア語の文書は、役人たちの事務の記録だった。