できごと

『日本書紀』の完成

Nihon Shoki
AD720年(養老4年)
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民唐突厥ツングース系の人びと吐蕃吐蕃渤海ウイグルカルルク高句麗タイ系の諸王国日本Nan-Zhaoアイヌ新羅ヒンドゥーの諸国真臘チャンパドヴァーラヴァティーAD720年(養老4年)平城京
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概要

舎人親王が編んだ30巻と系図1巻。漢文。神代から持統まで。「一書に曰く」と異伝を並べた。年月日をつけた。「日本」の名で書かれた最初の史書。六国史の最初。『古事記』は読まれず、こちらが正史として1000年読まれた。

場所

平城京
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県

本文

720年(養老4年)5月、天武天皇の皇子の舎人親王が、天皇の命で編んできた歴史書を元正天皇に奏上した。国の正式な歴史書『続日本紀』は、このことを短く記す。舎人親王が勅を受けて日本紀を編んでいたが、ここに完成して奏上した、紀30巻と系図1巻である、と。これが『日本書紀』である。天地の初めから持統天皇の譲位(697年)までを、漢文で年月日を追って記した、日本で最初の正式な国の歴史書とされる。添えられていた系図1巻は失われて伝わらない。

編纂の始まりは、681年(天武10年)とする見方が多い。この年、天武天皇は川島皇子、忍壁皇子ら12人に、天皇の系譜と古い出来事を記し定めるよう命じた。壬申の乱で甥の大友皇子を倒して即位した天武にとって、自分の王権の正しさを歴史の中に位置づけることは重要な仕事だった。同じ天武の命から、阿礼の暗誦を通して『古事記』も生まれている(『古事記』の完成)。完成まで約40年、その間に都は飛鳥から藤原京、そして平城京へ移り、律令の国家の形が整えられていった。

壬申の乱に関わる図版:Omi Otsu-no-miya, dairi-seiden-ato
壬申の乱Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

30巻のうち、最初の2巻は神々の時代を扱う神代の巻である。第3巻の神武天皇から天皇ごとの紀が始まり、最後の第30巻は持統天皇にあてられている。『古事記』が推古天皇で終わり、一本の筋で語るのに対して、『日本書紀』は持統天皇の時代まで、年月日を付けて出来事を記していく。中国の正史にならった形である。

『日本書紀』の神代の巻には、際立った特徴がある。本文の後に「一書に曰く」として、別の伝えを次々に並べていることだ。天地の始まりや国生み、天の岩屋戸といった場面ごとに、多いところでは10を超える異伝が載っている。編者たちは、諸家に伝わる違う伝えのどれか一つに決めることをせず、本文を立てたうえで異伝も残した。そのおかげで、当時どれほど多様な神話が語られていたのかを、私たちは知ることができる。

巻第十の写本(田中本)奈良国立博物館蔵。国宝。平安時代・9世紀現存最古写本。画像は現存第1紙(応神天皇紀)
巻第十の写本(田中本)奈良国立博物館蔵。国宝。平安時代・9世紀現存最古写本。画像は現存第1紙(応神天皇紀)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

文章は漢文で書かれているが、その質は巻によって違う。言語学者の森博達は、文法や漢字の使い方を細かく調べ、正しい中国語の漢文で書かれた巻と、日本語の癖が出た漢文で書かれた巻があることを示した。前者は唐から来た人々が書き、後者は日本人が書いたと考えられている。中国の史書や類書から、そのまま文を借りた箇所も多い。外国との関係の記事には、いまは失われた百済の歴史書『百済記』『百済新撰』『百済本記』が引かれており、朝鮮半島の古代史の史料としても重要である。

年代の付け方には、大きな問題がある。『日本書紀』は神武天皇の即位を辛酉の年、つまり西暦でいえば紀元前660年とする。明治時代の歴史家那珂通世は、これが中国の讖緯説の「辛酉の年には大きな変革が起きる」という考えにもとづき、推古天皇9年(601年)の辛酉から1260年をさかのぼって決められた年だと論じた。この説は広く受け入れられている。そのため初期の天皇の多くは、100歳を超える長寿で記されている。神功皇后の巻では、中国の歴史書の『魏志』倭人伝を引用し、倭の女王が魏に使いを送った記事(卑弥呼の遣使)を載せている。編者たちは、神功皇后を卑弥呼にあたる人物と考えていたらしい。

巻第一(神代巻上)の写本(吉田本、2巻のうち)京都国立博物館蔵。国宝。鎌倉時代・弘安9年(1286年)。卜部兼方奥書。画像は巻頭部分。
巻第一(神代巻上)の写本(吉田本、2巻のうち)京都国立博物館蔵。国宝。鎌倉時代・弘安9年(1286年)。卜部兼方奥書。画像は巻頭部分。Wikimedia Commons Urabe Kanekata · Public domain

7世紀の記事についても、そのまま事実とは言えない部分がある。646年の大化改新の詔(大化の改新)には「郡」という地方の単位が出てくるが、藤原京から見つかった木簡などから、701年の大宝律令より前には「評」という字が使われていたことが分かった。詔の文には、編纂の時代の制度に合わせて書き直された箇所があることになる。聖徳太子が定めたとされる憲法十七条についても、後の時代の手が入っているかをめぐって議論がある。

完成の翌721年から、朝廷では『日本書紀』の講義が開かれるようになった。博士が書物を読み解き、貴族たちが聴く。平安時代の初めまでに何度か開かれ、講義が終わると宴を開いて歌を詠んだ。『日本書紀』の後も、国は正式な歴史書を作り続け、『続日本紀』から『日本三代実録』まで、あわせて「六国史」と呼ばれる。だが10世紀の初めを最後に、国の歴史書は作られなくなった。

巻第二十二の写本(岩崎本、2巻のうち)京都国立博物館蔵。国宝。平安時代・10 - 11世紀。画像は推古天皇元年正月紀(「法興寺の塔の刹柱に仏舎利を安置」の記事がみえる)
巻第二十二の写本(岩崎本、2巻のうち)京都国立博物館蔵。国宝。平安時代・10 - 11世紀。画像は推古天皇元年正月紀(「法興寺の塔の刹柱に仏舎利を安置」の記事がみえる)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

書名にも議論がある。『続日本紀』は「日本紀」と書いており、もとは「日本紀」だったのが、後に「日本書紀」と呼ばれるようになったという説と、初めから「日本書紀」だったという説がある。いずれにせよ、国名の「日本」を掲げた現存最古の歴史書であることは変わらない。また、編纂の時期に朝廷の実力者だった藤原不比等は、奏上の3か月後に死んでいる。神代の巻で、藤原氏の祖とされる神アメノコヤネが重要な役を担っていることから、不比等の意向が働いたと読む研究者もいる。

『日本書紀』は、その後の日本で長く天皇の正統の根拠として読まれてきた。南北朝時代には北畠親房が『神皇正統記』を書き、江戸時代の国学者本居宣長は、中国風の理屈に染まった書として『日本書紀』よりも『古事記』を重んじた。明治政府は神武天皇の即位の日を紀元節として祝日に定め、紀元前660年を起点とする紀年が公式に使われるようになった。1940年には「紀元二千六百年」が国を挙げて祝われている。同じ1940年、記紀の神代の巻や初期の天皇の記事は後の時代に作られた物語だと論じた歴史家津田左右吉の著書が発売禁止になり、津田は起訴された。

山崎闇斎垂加神道では『日本書紀』研究が盛んに行われた。
山崎闇斎垂加神道では『日本書紀』研究が盛んに行われた。Wikimedia Commons 有朋堂書店 · Public domain

戦後、津田の研究は歴史学の出発点として受け入れられた。いま、『日本書紀』の記事が史実としてある程度確かめられるのは、外国の史料や考古学と照らし合わせられる5世紀以降、とくに6世紀後半からとみるのが一般的である。だが、そこに何が書かれ、何が書き換えられたかを読むことで、8世紀の朝廷が自分たちの国の成り立ちをどう語りたかったのかがよく分かる。その意味で『日本書紀』は、いまも第一級の史料であり続けている。

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