円仁の入唐求法
概要
最後の遣唐使で渡り、9年半唐に留まった。日記に山と寺と役所と物価を書き、会昌の廃仏を目撃した。当時の唐を知る一級の記録になる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
円仁AD794年–AD864年 · 旅した本文
円仁は下野(いまの栃木県)の生まれで、少年のころ比叡山に登り、最澄に学んだ。最澄が唐から持ち帰った天台の教えには、まだ答えの出ていない疑問が多く残っていた。それを本場で確かめてくるのが、円仁に与えられた役目だった。資格は「請益僧」。すでに一人前の僧が、限られた問いを携えて短期間だけ唐に渡り、遣唐使と一緒に帰ってくる立場である。
その遣唐使は、出発に二度失敗したあと、838年にようやく海を渡った。結果として、これが実際に唐へ渡った最後の遣唐使になる(遣唐使の中止)。円仁は45歳。船は揚州の近くの海岸に乗り上げるようにして着いた。円仁は天台宗の本山である天台山へ行きたいと願い出たが、唐の役所は許さなかった。短期の滞在者に遠くへの旅は認めない、という理由だった。

翌839年、使節団は帰国の途についた。円仁はここで、唐に残ることを決める。帰りの船が風待ちで山東半島の沖に停まったとき、弟子とともに船を降り、赤山という土地の寺に身を寄せた。この寺は新羅人の寺で、建てたのは、黄海の交易を握っていた新羅の海の実力者張保皐である。山東の沿岸には新羅人の村がいくつもあり、船乗りや商人として暮らしていた。円仁は彼らの助けで唐の役所から旅の許可証を得て、840年、文殊菩薩の聖地五台山に登った。天台山の代わりに、そこで天台の高僧に問いを示して答えを得、さらに長安に入った。
長安では資聖寺に住み、密教を学び、経典や仏画を集めた。ところが842年ごろから、道教を好む武宗の下で仏教への締め付けが強まっていく。まず素行の悪い僧の還俗に始まり、寺の財産の没収、外国人僧の追放へと進んだ。845年には全国で4600あまりの寺が壊され、26万人あまりの僧尼が俗人に戻されたとされる(会昌の廃仏)。円仁も還俗を命じられ、頭に布を巻いて俗人の姿で長安を出た。経典や仏画を抱えての逃避行である。

その後、帰国の船を求めて沿岸を2年近くさまよい、847年、新羅人の商人の船で博多に帰り着いた。唐に渡ってから9年あまりが過ぎていた。この船旅にも、張保皐の配下にあった新羅人の交易の網が関わっている。
円仁はこの間、日記を書き続けていた。『入唐求法巡礼行記』4巻である。838年6月の出航から847年12月の帰国まで、日付ごとに、どこへ行き、誰に会い、何を食べ、物がいくらで、役所でどんな書類を求められたかを記している。地方の役人の対応、宿の様子、農村の飢え、新羅人の村の暮らし、そして廃仏の進み方を、外国人の目で淡々と書きとめた。唐の正史にはこうした日々の細部はほとんど残っていない。旅の許可証を得るために役所を何度も回り、書類の書き方を直されて出し直す場面や、新羅人の寺で正月や秋の祭りを見た場面もある。赤山の寺では、新羅の言葉で経を読む声を聞き、新羅の作法で儀式が進むのを書きとめた。唐の内側に、別の国の人々が自分たちの暮らしを保ちながら住んでいたことが、この日記からよく分かる。

日記には、円仁自身の不安や焦りもにじむ。天台山への道を閉ざされ、帰りの船に乗れば二度と来られないと分かっていながら、使節団を離れる決断をした夜のこと。長安で、頼りにしていた役人が次々に左遷され、外国人の僧への目が厳しくなっていく日々。還俗を命じられた日には、かえって帰国の許しが出たと受けとめ、悲しみと喜びが入り混じったように書いている。
20世紀、アメリカの日本学者エドウィン・ライシャワーがこれを英語に訳し、マルコ・ポーロの旅行記(マルコ・ポーロ)より400年あまり早く、内容も正確な旅の記録だと評した。この評価で、円仁の名は欧米でも知られるようになった。
帰国した円仁は、持ち帰った密教の教えと五台山の念仏の作法を比叡山に伝え、854年に天台座主となった。864年に亡くなり、866年、最澄とともに日本で初めて「大師」の号を贈られた。慈覚大師である。のちに天台宗は、円仁の流れを汲む比叡山の延暦寺(山門)と、少し後に唐へ渡った円珍の流れを汲む園城寺(寺門)とに分かれて争うことになる。旅で世話になった赤山の神を祀るよう遺言し、それがのちに京都の赤山禅院になったと伝わる。