できごと

天安門事件

Tiananmen Square protests
AD1989年6月4日
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1989年6月4日の版図を描いています(18勢力)。

概要

民主化を求める学生らに軍が投入された。ベルリンの壁が開く5か月前の出来事になる。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(1)

鄧小平AD1904年8月22日–AD1997年2月19日 · 当時の最高実力者

本文

1989年4月15日、中国共産党の元総書記、胡耀邦が亡くなった。胡耀邦は改革に前向きな指導者として知られ、2年前、学生の民主化デモへの対応が甘いと批判されて職を追われていた。その死を悼んで、北京の大学生たちが天安門広場に花輪を手向けに集まった。追悼の集まりは、やがて政治への要求の場に変わっていった。

背景には、10年前から始まった中国の改革開放があった。鄧小平のもとで市場の仕組みが取り入れられ、経済は伸びた。一方で物価が急に上がり、役人とその家族が地位を使って儲ける汚職が目立つようになった。大学を出ても、望む職に就けるとは限らない。改革がもたらした豊かさと不公平の両方が、人々の不満の下地になっていた。

趙紫陽(傘をさす左側の人物。右はレーガン米大統領)
趙紫陽(傘をさす左側の人物。右はレーガン米大統領)Wikimedia Commons President (1981-1989 : Reagan). White House Photographic Office. 1981-1989 · Public domain

4月26日、党の機関紙『人民日報』は、学生の運動を国を乱す「動乱」だと決めつける社説を載せた。これが学生の怒りに火を付け、翌日には10万人規模のデモが行われた。学生たちが求めたのは、汚職の追及、報道の自由、そして政府との対等な対話だった。共産党の支配を倒すことを掲げたわけではない。

5月13日、学生の一部が広場でハンガーストライキを始めた。2日後、ソ連のゴルバチョフ書記長が北京を訪れた。中国とソ連の関係を30年ぶりに正常に戻すための訪問で、世界中の記者が北京に集まっていた。その目の前で、首都の中心の広場が学生に占拠されていた。運動には労働者や市民も加わり、北京の新聞記者たちは「本当のことを書かせろ」という横断幕を掲げて行進した。広場に集まる人は、多い日には100万人に達したとされる。

ブリティッシュコロンビア大学に置かれた民主の女神のレプリカ
ブリティッシュコロンビア大学に置かれた民主の女神のレプリカWikimedia Commons Dr.kwan at English Wikipedia · Public domain

この同じ時期、ソ連ではゴルバチョフのもとでペレストロイカとグラスノスチが進み、言論の自由が広がりつつあった。北京の学生たちの中には、その姿を中国の手本として掲げる者もいた。

党の指導部は割れていた。総書記の趙紫陽は対話を主張し、首相の李鵬は強硬な対処を求めた。最終的な決定権は、表向きの役職を退いていた鄧小平にあった。長老たちの多くは、若者が街頭を埋めた文化大革命の混乱を身をもって知っており、学生の運動にその再来を見たとする見方もある。5月19日の未明、趙紫陽は広場を訪れ、ハンストを続ける学生に「来るのが遅すぎた」と語りかけた。これが彼の公の場での最後の姿になる。趙紫陽は失脚し、2005年に亡くなるまで自宅に軟禁された。

文化大革命に関わる図版:Mao Zedong 19661001
文化大革命Wikimedia Commons 孟昭瑞 · Public domain

翌20日、北京に戒厳令が出された。だが市内に入ろうとする軍の車列を、市民たちが道に座り込んで止めた。5月末、美術学校の学生たちが作った「民主の女神」の像が、毛沢東の肖像と向き合う形で広場に立てられた。

6月3日の夜、軍は再び市内へ向かった。今度は実弾を撃った。最も多くの死者が出たのは、広場そのものよりも、西から広場へ向かう大通りの沿道だったとされる。軍の進入を止めようとした市民や、通りかかった人々が撃たれた。4日の早朝、広場に残っていた学生たちは軍との交渉の末に広場を離れた。翌5日、広場へ続く大通りで、戦車の列の前に一人の男性が立ちはだかる姿が外国の記者に撮影され、世界に伝わった。その男性が誰で、その後どうなったのかは分かっていない。

戒厳令の布告を決定した鄧小平
戒厳令の布告を決定した鄧小平Wikimedia Commons Unknown or not provided · Public domain

死者の数は、いまも分かっていない。中国政府は兵士を含めて約300人と発表した。一方で、数千人とする推計や、それ以上とする当時の外交文書もある。数百から数千まで、推計には大きな幅がある。息子を失った母親たちは「天安門の母」という会を作り、犠牲者の名前を一人ずつ調べ続けてきたが、当局の監視と圧力を受けている。

事件の後、運動の指導者の多くは逮捕されるか、国外へ逃れた。西側の国々は中国に制裁を科したが、その多くは数年のうちに緩められた。1990年代に入ると、学校では愛国主義の教育が強められ、共産党が中国を外国の侵略から救ったという歴史が繰り返し教えられるようになった。鄧小平は1992年に南方の都市を回って改革を続けるよう号令し、中国は政治の自由を抑えたまま、経済の成長を急ぐ道を進んだ。

A建国橋を占拠する人民解放軍の戦車
A建国橋を占拠する人民解放軍の戦車Wikimedia Commons Pete Campolongo · Public domain

同じ6月4日、ポーランドでは部分的に自由な選挙が行われ、自主管理労組「連帯」が圧勝していた。その後、東欧では体制が次々に倒れ、11月にはベルリンの壁の崩壊が起き、チェコスロヴァキアではビロード革命で共産党の支配が終わった。ソ連もやがて解体した。中国の共産党は倒れなかった。その分かれ目がどこにあったのか、軍が党に従い続けたこと、経済の成長が不満を吸い取ったことなどが、いまも比較の対象として論じられている。

中国の国内では、この事件をいまも公に語ることができない。インターネットでは「6月4日」を指す言葉が検索できず、毎年この日が近づくと監視が強まる。香港では長く、毎年6月4日に数万人が集まる追悼集会が開かれてきたが、2020年からは禁じられている。

出典(1)

フランシス・フクヤマ(渡部昇一 訳) 『歴史の終わり』第2部(それでも残る問い)

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