できごと

ピットマン式速記

Pitman shorthand
AD1837年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1837年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1837年の版図を描いています(22勢力)。

概要

アイザック・ピットマンは、綴りではなく音を書き取る記号を作った。子音を線の向きで、有声と無声を線の太さで書き分け、母音は点と短い線で線の脇に添える。母音は省いてよい。習熟すれば毎分200語を超える。議会と法廷と新聞が採用し、通信教育で世界に広がった。同じころ、ドイツではガベルスベルガーが、後に日本では田鎖綱紀が、それぞれの言語のための方式を作った。話された言葉を、その場で文字にできるようになった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

アイザック・ピットマンAD1813年1月4日–AD1897年1月22日 · 作った

本文

話された言葉を、話す速さのまま書き取る。その試みは古代からあった。紀元前1世紀のローマでは、キケロの秘書ティロが元老院の演説を書き留めるための略記号を工夫している(ティロの速記)。イギリスでも17世紀からいくつもの速記法が作られ、議会の演説や説教を書き取るのに使われてきた。だが、どれも英語の綴りをもとにした略記で、覚えるのが難しく、使える人は限られていた。

これを大きく変えたのがアイザック・ピットマン(1813〜1897年)である。イングランド西部ウィルトシャーのトロウブリッジで、織物工場で働く父のもとに、11人きょうだいの一人として生まれた。家は貧しく、少年のうちに学校をやめて工場で事務員として働き、そのかたわら独学を続けた。やがてロンドンの教員養成所に学び、村の学校の教師になる。

ピットマン式速記の文字表
ピットマン式速記の文字表Wikimedia Commons Cross · Public domain

ピットマンは若い頃から、当時イギリスで最も広く使われていたサミュエル・テイラーの速記法を身につけていた。あるとき出版者から、その改訂版を作らないかと持ちかけられる。彼は手直しにとどまらず、まったく新しい方式を一から組み立てた。1837年、それを『音による筆記法』という14ページの小冊子にして出した。値段は4ペンス。誰でも買える値段にすることを狙っていた。

核心は、綴りではなく音を書くことにあった。英語の綴りは発音と食い違っていることが多い。同じ「オー・ユー・ジー・エイチ」の綴りが、語によってまるで違う音で読まれ、騎士を意味する語の頭の文字は発音すらされない。そんな綴りを写すのは、速く書く上では無駄である。耳に聞こえた音だけを記号にすればよい。

ピットマン生誕百年を記念する切手
アイザック・ピットマンWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ピットマン式では、子音を線で書く。線の向きが縦か横か斜めか、直線か曲線かで、どの子音かが決まる。そして、同じ口の形で出す無声の音と有声の音、たとえば「プ」と「ブ」、「ト」と「ド」は、同じ形の細い線と太い線で書き分ける。このため、筆圧で太さを変えられる柔らかいペンや鉛筆が必要だった。のちにボールペンが広まると、これがこの方式の弱みになる。母音は、子音の線の脇に点や短い線を添え、その位置で区別する。そして速く書くときは、母音を省いてよい。前後の文脈から読めるからである。子音だけを書いて母音を省くのは、アラビア文字やヘブライ文字と同じ発想だった。

熟練すれば、1分間に150語から200語を書けた。ふつうの会話は1分間に120語から150語ほどだから、話す速さに追いつける。競技の記録では、それをはるかに上回る速さで書いた者もいる。

ピットマンは、方式を作っただけでなく、広め方にも工夫を凝らした。小冊子を安く売り、郵便を使って教えた。受講する人が練習した速記を郵便で送ると、添削して送り返す。1840年、イギリスでは全国どこへでも1ペニーで手紙が届く郵便制度が始まり(ペニー・ブラックと郵便改革)、遠くの受講者にも安く教えられるようになった。バースには音標学会という拠点を設け、印刷所を持って教材を大量に刷った。弟のベン・ピットマンはアメリカへ渡ってこの方式を広め、ピットマン式は英語の国々に行き渡った。

速記はまず、議会と法廷と新聞に入った。議会の演説を一言一句記録し、法廷の証言を書き留め、演説をその日のうちに記事にする。若い頃のチャールズ・ディケンズは、ピットマン式ではなく古いガーニー式を使う議会の速記記者で、のちに当時最も速い記者の一人だったと自ら書いている。19世紀後半には事務所にも入った。上司が口で手紙を述べ、秘書が速記で書き取り、タイプライター(タイプライターとQWERTY)で清書する。この組み合わせが、20世紀の事務の仕事の標準になった。

速記は、ほかの言語にも広がった。ドイツでは1834年にフランツ・クサーヴァー・ガベルスベルガーが方式を作り、のちにシュトルツェ式などと合わせて、1924年に統一された速記ができた。日本では1882年、田鎖綱紀が英語の速記を手本に日本語の速記法を作り、「日本傍聴筆記法」と名付けた。1890年に第一回帝国議会が開かれると、その議事は速記で記録された。議会を開くことと、速記を育てることは同時に進んでいたのである。

日本の速記は、文章の形まで変えた。1884年、落語家三遊亭円朝の口演を速記した『怪談牡丹灯籠』が本になって評判を呼んだ。話し言葉がそのまま文字になって読まれたのである。小説家の二葉亭四迷は、言文一致の文章を書くとき円朝の落語の口調を参考にしたと書き残している。話す言葉で書く新しい文章(言文一致)の誕生に、速記がひと役買っていた。

20世紀を通じて、速記は事務の仕事の基本の技能だった。学校で教えられ、「速記とタイプ」ができることが事務職に就く条件になった。だが、やがて速記は消えていく。録音の機械が書き取る手間を省き、ワープロや電子メールが広まると、上司が自分で文章を打つようになった。法廷では、鍵盤を押して音を記録する速記用のタイプライターが手書きの速記に取って代わった。日本の衆議院と参議院も、2000年代の半ばに手書きの速記者の養成をやめ、機械による記録に切り替えている。

ピットマンには、速記のほかにもう一つ、生涯をかけた運動があった。英語の綴りそのものを、発音どおりに改めようというのである。彼は新しい文字を考え、それで刷った本を大量に出した。のちには劇作家バーナード・ショーも綴りの改革を唱えたが、どちらも実らなかった。英語の綴りは、いまもあのとおりである。

1894年、ピットマンはナイトの位を授けられた。菜食を貫き、酒を断ち、晩年まで働き続けて、1897年に84歳で亡くなった。話された言葉をその場で文字にするという彼の仕組みは、録音と機械に役目を譲ったが、議会の記録や小説の文体の中に、いまもその跡を残している。

同じ時代のできごと

八時間労働AD1817年偽造との競争AD1818年第三次マラーター戦争AD1818年6月3日左右のある靴AD19世紀ラッフルズのシンガポールAD1819年2月6日カールスバート決議AD1819年9月20日ムフェカネAD1820年頃キニーネを取り出すAD1820年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1837年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →