できごと

陳寿『三国志』

Records of the Three Kingdoms
AD285年頃
年に諸説あり重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシア漢サカ族の王国マガダスーレーン家の王国サータヴァーハナ朝カリンガ高句麗南匈奴アイヌチョーラ朝Yuebanチャンパ新羅シンハラAD285年頃洛陽
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD285年頃の版図を描いています(17勢力)。

概要

蜀に仕えて晋に仕えた史官が、魏・蜀・呉を65巻に書いた。魏を正統にし、蜀に「本紀」を立てなかった。倭人伝はその一部。130年後に裴松之が注を付けて倍にし、1100年後に小説になった。

場所

洛陽
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省

関わった人(1)

陳寿AD233年–AD297年 · 著者

本文

陳寿は233年、蜀の巴西郡安漢、いまの四川省の東部に生まれた。蜀の学者として名高い譙周に学び、蜀の朝廷で宮中の書庫を扱う下級の史官になった。『晋書』の陳寿伝によれば、当時、宦官の黄皓が権勢をふるい、役人たちは争ってこびへつらったが、陳寿だけはそうしなかったため、たびたび官位を下げられたという。

263年、蜀は魏に滅ぼされた(蜀の滅亡)。陳寿の人生は、ここで一度途切れる。父の喪に服している最中に病気になり、侍女に薬を作らせたところ、それを見た客人に親不孝だと言いふらされ、郷里で長く仕官の道を閉ざされたと伝えられる。喪中の作法が人の評価を決めた時代だった。

『魏志』の本文。魏の歴史を記す、297年頃成立
陳寿Wikimedia Commons Public domain

彼を引き上げたのは、魏に代わって265年に建った晋の重臣、張華だった。張華は陳寿の才を認めて推薦し、陳寿は晋の都洛陽で、歴史の編纂を担う著作郎の補佐に任じられた。274年、陳寿は蜀の丞相諸葛亮の文章を集めた『諸葛亮集』24篇を編んで献上した。敵国の宰相だった人物の文集を、晋の朝廷が求めたのである。その上奏文で陳寿は諸葛亮の政治を高く称える一方、臨機応変の軍略は得意とするところではなかったのではないか、と書いている。

280年、晋が呉を滅ぼして中国を統一すると(呉の滅亡(晋の統一))、陳寿は三国の歴史をまとめにかかった。すでに魏や呉については、それぞれの国で書かれた史書があった。陳寿はそれらと自分の知る蜀の記録を合わせ、「魏書」30巻、「蜀書」15巻、「呉書」20巻、あわせて65巻の史書を書き上げた。三つの書は別々に通用していたともいわれ、「三国志」は一つにまとめて呼ぶ後の名である。完成は280年代と考えられる。同じ頃、夏侯湛という人物も魏の歴史を書いていたが、陳寿の書を見て自分の原稿を破り捨てた、と『晋書』は伝える。

陳寿が向き合った最大の問題は、三つの国のどれを正統の王朝として扱うかだった。彼は魏を正統とした。晋は魏から帝位を譲られた王朝であり、晋の臣下として書く以上、魏を否定すれば晋の正しさも揺らぐ。そのため、魏の君主には皇帝の年代記である「本紀」を立て、曹操を太祖武帝とする「武帝紀」から始めた。一方、蜀と呉の君主は臣下と同じ「伝」で扱った。劉備は「先主伝」、その子劉禅は「後主伝」、孫権は「呉主伝」である。

ただ、陳寿は蜀の出身だった。劉備を魏の立場から「蜀の劉備」と呼び捨てにはせず、「先主」と呼んで一定の敬意を残した。魏を正統とする枠組みのなかで、故国への思いをどこまでにじませたのかは、後世の読者の関心を引き続けている。4世紀には習鑿歯が蜀こそ漢を継ぐ正統だと論じ、12世紀の朱熹もその立場を取った。蜀を正統とする見方は、のちの『三国志演義』の世界観につながっていく。

陳寿の書は、簡潔なことで知られる。『史記』の完成を手本とする歴代の史書が備えた、制度や天文をまとめた「志」や、年表にあたる「表」が無く、本紀と列伝だけでできている。文は切り詰められ、真偽の疑わしい話は多く省かれた。同時代の人々はその叙述を「良史の才」と称えたが、裏返せば、削りすぎて物足りないという評価にもなった。

陳寿の人柄については、悪い噂も伝わる。『晋書』は、陳寿の父が馬謖の参謀で、街亭の敗戦のあと諸葛亮によって髪を剃られる刑を受けたこと、陳寿自身も諸葛亮の子の諸葛瞻に軽んじられたことを挙げ、だから諸葛亮の軍略を低く書いたのだと噂されたと記す。また、魏の丁儀・丁廙の子に、米千斛をくれれば父の伝を立てようと持ちかけ、断られたので伝を立てなかったという話も載せている。ただ、『晋書』は陳寿の死から300年以上後の唐代に編まれたもので、こうした話は清代の考証学者たちによって根拠が薄いと反論されている。諸葛亮への評価も、全体として見れば称賛のほうがはるかに多い。

母が亡くなったとき、陳寿は母の遺言に従って洛陽に葬り、故郷へ帰さなかった。これがまた親不孝と非難され、官界での立場を悪くした。297年、陳寿は65歳で没した。死後、范頵らが上奏し、陳寿の書は戒めとなる言葉が多く、政治の得失を明らかにしていると推した。晋の朝廷は役人に命じてその書を写し取らせ、こうして『三国志』は公認の史書となった。

それから130年ほど後の429年、南朝の宋の文帝は、陳寿の書はあまりに簡略だとして、裴松之に注を付けるよう命じた。裴松之は、陳寿が採らなかった逸話や異説を、他の書物から大量に引いて書き加えた。引かれた書物は百数十種とも二百種以上とも数えられ、『魏略』『江表伝』『曹瞞伝』『漢晋春秋』など、その多くは原本が失われ、いまでは裴松之の注の中にしか残っていない。注の分量は本文に匹敵するといわれ、三国志の英雄たちの生き生きとした逸話の多くは、本文ではなく注のほうに入っている。

日本にとって、この書には特別な意味がある。「魏書」の第30巻、烏丸・鮮卑・東夷伝のうち、倭人について書いた条である。およそ2000字ほどの記事に、海を渡って倭に至る道のり、倭の人々の風俗、そして女王卑弥呼と邪馬台国のことが記されている(卑弥呼の遣使)。「魏志倭人伝」と呼ばれるが、そういう名の独立した本があるわけではない。陳寿自身は倭を訪れたことはなく、魏の使者の報告や、魏で書かれた記録をもとに書いたと考えられている。記された方角と距離をそのままたどると、邪馬台国は九州のはるか南の海の上に出てしまう。どこかで読み替えなければならず、その読み方をめぐって、邪馬台国の所在の論争は江戸時代から続いている。

陳寿の書が書かれてからおよそ1000年後、元末から明初にかけて、羅貫中の名で伝わる『三国志演義』がまとめられた。講談や芝居で語り継がれた物語を集め、蜀を善玉、魏を悪役とする小説である。清の学者章学誠はこれを、七分が事実で三分が虚構だと評した。その七分の土台を据えたのが、蜀に生まれ晋に仕えた一人の史官だった。

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