藤原道長
概要
娘を次々と天皇に嫁がせ、摂関政治の頂点に立った。「この世をば」の歌で知られる。
所属
日本関わったできごと(1)
摂関政治の頂点AD1016年 · 当人本文
966年、藤原兼家の五男として生まれた。父の兼家は、娘を天皇の后に入れ、孫を即位させて摂政になった人で、藤原氏の中でも最も勢いのある家だった。ただ、道長の上には同じ母から生まれた兄が二人、道隆と道兼がいた。家を継ぐのは兄たちで、道長が政権の頂点に立つことは、若いころには誰も考えていなかった。

『大鏡』には、若い道長の気性を伝える話がいくつも載っている。父の兼家が、才能のある親戚の公任をうらやみ、我が子たちはその影を踏むこともできまいと嘆いたとき、兄たちは黙っていたが、道長だけが、影など踏まず顔を踏んでやりましょう、と言い返した。肝試しで兄たちが途中から逃げ帰るなか、道長だけが言われた場所まで行き、その証拠に柱を削り取って帰ってきた、という話もある。どちらも後に書かれた歴史物語の中の逸話で、そのまま事実とは言えないが、豪胆な人として語られていたことは分かる。
運が回ってきたのは995年である。都で疫病がはやり、多くの公卿が死んだ。この年の4月に長兄の道隆が病で死に、続いて関白を継いだ次兄の道兼も、わずか数日で疫病に倒れた。残った候補は、道隆の息子で22歳(数え年。以下も同じ)の伊周と、その叔父にあたる30歳の道長だった。決め手になったのは、一条天皇の母で、道長の姉にあたる詮子である。詮子は天皇の寝所にまで押しかけ、涙ながらに道長を推したと『大鏡』は書く。道長は天皇に奏上される文書を先に見る内覧の地位を得て、政権の中心に立った。翌年、伊周とその弟は、花山法皇に矢を射かけた事件などを理由に都から流された。
![金銅藤原道長経筒(国宝、金峯神社所蔵)、1691年(元禄4年)、大峯山寺本堂(山上蔵王堂)改築の際に出土[注釈 7]。](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/06/Gilt-bronze_Fujiwara_no_Michinaga_sutra_case_%28Kinpu_Shrine%2C_Yoshino-gun%2C_Nara_Prefecture%29.jpg)
そこから道長がしたことは、娘を天皇の后にすることだった。1000年、13歳の長女彰子を一条天皇の中宮に立てた。天皇にはすでに伊周の妹の定子が后としていたため、一人の天皇に二人の后が並ぶ異例の形になった。定子のもとには清少納言が仕え、彰子のもとには、やがて『源氏物語』の作者紫式部が仕えることになる。二人の后の宮廷は、そのまま当時の女房文学の舞台になった。
1008年、彰子が男の子を産んだ。のちの後一条天皇である。誕生を祝う宴の様子は、紫式部の日記に詳しく書かれている。次女の妍子は三条天皇の后になった。三条天皇とは折り合いが悪く、道長は目を患っていた天皇に退位を迫り続け、1016年、ついに孫の後一条天皇を即位させて、自ら摂政となった(摂関政治の頂点)。翌年には摂政の地位を長男の藤原頼通に譲っている。道長は生涯、関白の位には就かなかった。
1018年10月、三女の威子が後一条天皇の中宮に立った。彰子は太皇太后、妍子は皇太后で、一つの家から三人の后が並んだ。その夜の祝いの宴で、道長は即興で歌を詠んだ。この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば。この世は自分のための世だと思う、満月に欠けたところが無いように、と。
この歌が今日まで残ったのは、その場にいた藤原実資が日記『小右記』に書き留めたからである。実資は道長と同じ藤原氏でも別の家の出で、道長に遠慮なく意見を言うことで知られた人だった。道長から返歌を求められた実資は、あまりに見事な歌なので返す歌はない、皆でこの歌を声をそろえて詠みましょう、とかわし、一同はそれを何度も唱和した、と日記にある。道長自身の日記には、歌を詠んだことは書かれているものの、歌そのものは記されていない。

その道長自身の日記が『御堂関白記』で、かなりの部分が本人の自筆のまま伝わっている。千年前の権力者の自筆の日記がまとまって残る例は世界でもまれで、ユネスコの世界の記憶にも登録された。中身は政務と儀式の段取り、贈り物、天候、体調の記録が中心で、字は大きく勢いがあり、誤字や書き損じ、塗り消しもそのまま残っている。人に見せるために飾った文章ではないところに、かえって本人の姿が見える。
晩年の道長は病に苦しんだ。のどが渇いて水をたくさん飲み、痩せていくという記録から、いまでいう糖尿病だったと考えられている。目もよく見えなくなり、胸の発作にも襲われた。1019年に出家し、都の東に巨大な寺、法成寺を建てた。中心の阿弥陀堂には九体の阿弥陀仏が並び、人びとはその壮麗さを極楽のようだと言った。

万寿4年の暮れ(西暦では1028年の初め)、道長はその阿弥陀堂で最期を迎えた。『栄花物語』によれば、阿弥陀仏の手から引いた五色の糸を握り、僧たちの念仏の声の中で息を引き取った。62歳だった。極楽に生まれ変わることを願う浄土の教えが貴族の間に広がっていた時代で、権勢の頂点にいた人の晩年は、死後の救いを願うことに費やされた。
法成寺は後に焼けて跡形も無いが、子の頼通が宇治に建てた平等院鳳凰堂が、その時代の極楽の姿をいまに伝えている。道長の時代は、天皇の外戚として摂政・関白が政治を動かす藤原氏の全盛期で、その後半世紀ほどで、院政という新しい形にその座を譲っていく。