できごと

卑弥呼の遣使

Himiko sends envoys to Wei
AD239年
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民漢魏呉蜀マガダ高句麗南匈奴アイヌチャンパ新羅AD239年邪馬台国(位置は特定されていない)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD239年の版図を描いています(12勢力)。

概要

魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡を得た。日本の側に同時代の記録が無く、国の位置も墓も決着していない。

場所

邪馬台国位置は特定されていない(誤差 ±350km)
34.00°N 133.00°E · 日本(畿内説と九州説があり、所在地は決着していない)

関わった人(1)

卑弥呼?–AD248年頃 · 当人

本文

3世紀の東アジアは、中国の三国の鼎立の時代だった。華北の魏、江南の呉、四川の蜀が争い、朝鮮半島の北西部から遼東にかけては、公孫氏が半ば独立した勢力を築いていた。半島に置かれた帯方郡も公孫氏が押さえており(公孫氏の帯方郡)、海の向こうの倭の国々にとって、中国への窓口はこの公孫氏だった。

紀元238年、魏の司馬懿が遼東に遠征して公孫氏を滅ぼし、帯方郡は魏の直接の支配に入った。倭の女王卑弥呼が使者を送ったのは、その翌年の景初3年(239年)6月である。現存する『三国志』の版本では景初2年となっているが、公孫氏が滅びる前に使者が帯方郡を通れたとは考えにくく、後の史書や『日本書紀』の引用が3年としていることから、239年とみるのが一般的である。窓口が替わった機会を、すかさずとらえた外交だったことになる。

魏志倭人伝の原文の抜粋
魏志倭人伝の原文の抜粋Wikimedia Commons Public domain

使者の名は難升米と都市牛利と記される。帯方郡の役人に付き添われて魏の都の洛陽に至り、男女の生口(奴隷とも、技能を持つ者とも解される)10人と、布を献上した。この年の12月、魏の皇帝は詔書を下し、卑弥呼を「親魏倭王」とした。魏に親しむ倭の王、という意味である。金の印と紫の綬、そして銅鏡100枚、絹や真珠、鉛丹などの品々が与えられた。詔書は、これらをすべて国の人々に示し、魏があなたを大切に思っていることを知らせよ、と述べている。

魏の側にも事情があった。南の呉は海を通じて遼東や東方の勢力と結ぼうとしており、魏は東の海の向こうにも味方を置きたかった。遠い国が皇帝の徳を慕って貢ぎ物を持ってくることは、王朝の権威を示すことでもあった。倭は、魏から見て呉の背後にあたる、はるか南東の大国として記されている。

水上バスのヒミコ、隅田川
水上バスのヒミコ、隅田川Wikimedia Commons Yoshio Kohara This photo was taken with Canon EOS 650D · CC BY 3.0

この遣使のことは、陳寿の陳寿『三国志』の魏書の東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝に記されている。そこには、倭はもと男の王が治めていたが、70〜80年ほどたって国が乱れ、何年も互いに攻め合ったので、一人の女子を共に立てて王とした、とある。卑弥呼は鬼道に仕え、よく人々を惑わした。年はすでに長じていたが夫はなく、弟が国の政治を助けた。王となってから彼女を見た者は少なく、1000人の侍女が仕え、ただ一人の男子が飲食を運び、言葉を伝えた。宮殿や楼閣は柵で厳重に囲まれ、常に兵が守っていたという。

遣使はその後も続いた。240年には帯方郡の使者が倭に来て詔書と品々を届け、243年にも倭は使者を送っている。247年ごろ、卑弥呼は南の狗奴国の男王と争っていることを帯方郡に訴え、郡は役人の張政を送って、檄文で倭を励ました。その直後に卑弥呼は死んだ。大きな墓が造られ、径は百余歩、殉葬された奴婢は100人余りだったと記される。後に男の王が立ったが国は従わず、殺し合いで1000人余りが死んだ。そこで卑弥呼の一族の13歳の娘、台与(壱与とも)を王とし、国はようやく収まったという。

分からないことは多い。第一に、邪馬台国がどこにあったのか。倭人伝の道のりの記述をそのまま追うと、九州のはるか南の海上に出てしまう。方角を読み替えれば畿内に、距離を読み替えれば九州に収まる。江戸時代の新井白石や本居宣長の頃から論争が続き、奈良県の纒向遺跡で3世紀の大型の建物跡が見つかってからは畿内説が勢いを増したが、決着はしていない。

第二に、墓はどれか。纒向にある箸墓古墳を卑弥呼の墓とみる説は有力だが、造られた年代の測り方にも異論がある。第三に、魏から贈られた鏡はどれか。日本各地の古墳から多く出る三角縁神獣鏡をそれだとみる説があるが、中国では一枚も出ていないことから、日本で作られたものだとする反論も強い。

箸墓古墳に関わる図版:Hashihaka-kofun entrance-2
箸墓古墳Wikimedia Commons Saigen Jiro · CC0

日本の側の史書は、卑弥呼の名を記していない。8世紀の『日本書紀』は、神功皇后の巻に魏志の倭の女王の記事を引用しており、編者たちは卑弥呼を神功皇后にあてようとしたらしい。だが今日、この比定はほとんど支持されていない。卑弥呼は、外国の史書の中にだけ姿を残した、日本列島の最初の王の一人である。

それでもこの記録からは、3世紀の倭が、いくつもの国の連合の上に共通の王を立てていたこと、その王が神を祭る力によって人々を束ねていたこと、そして大陸の情勢を読み、自ら外交の窓口を開く力を持っていたことがうかがえる。王の権威の裏付けを外の大国に求めるやり方は、のちの倭の五王の遣使へと受け継がれていく。

動画(1)

006 邪馬台国 日本史ストーリーノート第01話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第6講「邪馬台国」

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