ソグド商人のネットワーク
概要
サマルカンドを中心に、中国から黒海まで隊商の網を張った人びと。ソグド語が絹の道の共通語になり、仏教もマニ教もこの商人たちに運ばれた。
場所
39.63°N 66.97°E · ウズベキスタン
本文
いまのウズベキスタンとタジキスタンにまたがるザラフシャン川の流域に、ソグディアナと呼ばれる土地があった。サマルカンドやブハラなどのオアシス都市が並び、そこに住む人びとをソグド人という。イラン系の言葉を話し、ゾロアスター教の神々を祀っていた。一つの国家にまとまることはなく、都市ごとに王がいた。
国の代わりに、彼らは網を作った。西は黒海の近くまで、東は中国の長安や洛陽まで、隊商の道筋に仲間を住まわせ、宿と代理人を置いた。遠くの町に住みついた者たちは、故郷との手紙と、親族や同郷のつながりで結ばれていた。中国の唐の歴史書には、ソグドの人は子が生まれると口に蜜を含ませ、手に膠(にかわ)を握らせる、という話が出てくる。甘い言葉を話し、つかんだ銭を離さないように、という願いだという。

彼らの網の古さを示すものがある。1907年、探検家オーレル・スタインは、敦煌の西にある長城の見張り台の跡から、紙の手紙の束を見つけた。宛先に届かなかったソグド語の手紙で、4世紀のはじめのものとされる。そのひとつで、ある商人はサマルカンドの仲間に、洛陽が焼かれ、皇帝が都を逃げ出したと伝えている。中国の北が戦乱に巻き込まれた時代の、遠くの町から見た報告である。別の一通では、敦煌に置き去りにされた女性が夫を責め、ひどい暮らしを訴えている。
6世紀、北の草原に突厥が興ると(突厥可汗国の成立)、ソグド人はその宮廷に入りこみ、外交と交易を担った。568年ごろには、マニアフというソグド人が突厥の使節としてコンスタンティノープルまで出向き、ペルシアを通さずに絹を直接売る道を開こうとしている。ササン朝ペルシアが絹の取引の仲立ちを手放さなかったからで、ビザンツの歴史家がこの使節のことを書き残している。中国でも、北朝から唐にかけて多くのソグド人が住みつき、集落の長には役職が与えられた。中国風の姓は出身地で決まり、サマルカンドの人は康、ブハラの人は安、と名乗った。近年、西安などでソグド人の墓が見つかり、石の棺に宴や狩りや隊商の姿が彫られている。

運んだのは、絹や銀や香料や馬だけではない。唐の都で流行した胡旋舞のような踊りや音楽、ぶどう酒もその一つだった。宗教も運んだ。仏典が中国語に訳される過程にソグド人が関わり、マニ教(マニ教の成立)、ゾロアスター教、キリスト教の東方の一派も、この道を通って東へ伝わった。ソグド文字はのちに突厥やウイグルに取り入れられ、さらにモンゴル文字、満洲文字へと受け継がれていく。
唐で大きな軍を率いた安禄山も、ソグド系の父を持つとされる。755年に始まる安史の乱は唐をゆるがし、そのあと唐では、ソグド人を含む西方の人びとへの目が厳しくなった。一方、乱の鎮圧を助けたウイグル可汗国では、ソグド人が商売と政治の顧問として重く用いられ、可汗をマニ教に改宗させるほどの影響力を持った。

故郷のソグディアナには、8世紀のはじめ、アラブのイスラーム軍が攻めこんだ。パンジケントの王が山の城にこもって抵抗した末に処刑された話は、1933年にその山の城跡で羊飼いが見つけた文書から知られている。パンジケントの町の跡からは、宴や英雄の物語を描いた壁画も掘り出され、交易で富んだ商人の家の暮らしぶりを伝えている。751年のタラス河畔の戦いのあと、中央アジアはイスラームの世界に組みこまれていく。9世紀に興ったサーマーン朝(サーマーン朝の興り)のもとでペルシア語が広まった。
ソグド語は書き言葉として使われなくなり、やがて話す人もいなくなった。いまではタジキスタンの山あいに、その流れをくむとされる言葉が細々と残るだけである。網を担った人びとは、それぞれ住みついた土地の民に溶けこんでいった。国を持たなかったぶん、歴史の表に名を残すことは少ないが、絹の道を行き来したものの多くは、彼らの手を通っていた。