できごと

倭の五王

Five kings of Wa
413年 – 478年
期間を持つできごと重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民柔然晋五胡十六国高句麗アイヌ北涼日本チャンパ新羅413年平城京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている413年の版図を描いています(11勢力)。

概要

讃・珍・済・興・武。中国の史書にだけ名が残り、日本側の史料の誰にあたるのかは決まっていない。

場所

平城京
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県

本文

3世紀に卑弥呼の遣使があってから、中国の歴史書から倭の記事はしばらく消える。次に倭の王の名がはっきり現れるのは5世紀である。中国では北を騎馬民族の王朝が、南を漢人の王朝が治める南北朝の時代に入っていた。420年に南で劉裕の宋建国があり、翌421年、倭の王「讃」がこの宋に使いを送った。以後、およそ60年のあいだに、讃・珍・済・興・武の5人の王が、10回近く使者を送ったことが、宋の正史『宋書』に記されている。413年にも倭の使いが東晋に来たという記録があり、これを讃の使いとみる説もある。

倭の王たちが求めたのは、中国の皇帝から与えられる称号だった。讃の弟の珍は438年、自分を「使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と名のり、そのまま正式に任じてほしいと願い出た。朝鮮半島南部の諸国の軍事を取りしきる立場を、中国の皇帝に認めさせようとしたのである。宋が与えたのは「安東将軍・倭国王」だけだった。次の済は451年、ようやく半島南部の軍事の称号を得たが、そこから百済は外された。百済はすでに宋と直接結び、倭より高い位を授かっていたからである。

なぜ倭は、半島への関わりにこれほどこだわったのか。当時の倭にとって、鉄の素材や新しい技術は朝鮮半島南部から手に入れるものだった。その半島では、北の高句麗が力を伸ばしていた。4世紀の終わりから5世紀の初めにかけて、高句麗が倭の軍を打ち破ったことは、好太王碑にも刻まれている。427年、高句麗は都を平壌へ移して南へ圧力を強め(高句麗の平壌遷都)、475年には百済の都の漢城を落として王を殺した(百済の漢城陥落)。

その3年後の478年、最後の王「武」が宋の皇帝に送った上表文が『宋書』に全文残っている。武は、祖先がみずから甲冑を身にまとい、山や川を越えて休む間もなく戦い、東では毛人の55国を、西では衆夷の66国を従え、海を渡って北の95国を平らげた、と書く。そして、高句麗が道をふさぎ、百済への道を断っている、父の済も兄の興も高句麗を討とうとしながら果たせずに死んだ、自分がその志を継ぐので、どうか位を授けてほしい、と訴えた。中国の古典の言い回しを自在に使った、堂々とした漢文である。倭の王のそばに、こうした文章を書ける渡来系の書記がいたことをうかがわせる。宋は武を「安東大将軍・倭王」に任じたが、百済の軍事はやはり認めなかった。

この5人が、日本の『古事記』『日本書紀』に出てくるどの天皇にあたるのかは、長いあいだ議論されてきた。『宋書』は、珍は讃の弟、興は済の世継ぎの子、武は興の弟と書く。『日本書紀』の系図と見比べて、済を允恭天皇、興を安康天皇、武を雄略天皇とみる説が広く受け入れられている。讃と珍については、仁徳、履中、反正、応神など説が分かれたまま決まらない。そもそも、記紀の系図そのものが後の時代に整えられたもので、一人ずつ当てはめること自体に無理があるとする見方もある。

武を雄略天皇とみる説を強く支えたのが、一振りの鉄剣だった。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出た鉄剣に、1978年、X線の検査で115の金の象嵌の文字が浮かび上がった。辛亥の年(471年とみられる)に、ヲワケという人物が、始祖から自分までの8代の系譜を記し、自分は「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」がシキの宮におられたときに天下を治めるのを助けた、と刻ませたものである。ワカタケルは、記紀の伝える雄略天皇の名、オオハツセワカタケルと合う。熊本県の江田船山古墳の大刀の銘も、同じ大王の名と読み直された。関東から九州までの豪族が、ヤマトの大王に仕えていたことを、地中の鉄が語っている。

5世紀は、大阪平野に大仙古墳(仁徳天皇陵とされる)をはじめとする巨大な前方後円墳が築かれた時代でもある。中国の皇帝から称号をもらい、その権威を背に半島と列島の豪族に臨む、という倭の王の戦略は、しかし武の代で終わる。478年を最後に、倭は中国の王朝に使いを送らなくなり、次に使者が海を渡るのは、120年あまりのちの600年、隋への遣使である。稲荷山の剣が大王の「天下」を記していることに注目し、中国の天下とは別の、倭の王を中心にした天下という考えがこのころ芽生えたとみる研究者もいる。

動画(1)

009 古墳時代中期 日本史ストーリーノート第02話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第9講「古墳時代中期」

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