許慎
概要
『五経無双』と呼ばれた学者。9353字を540の部首に分け、六書で成り立ちを説いた。本は息子が121年に献上した。清の段玉裁の注で、二千年後に読み直された。
関わったできごと(1)
『説文解字』AD100年 · 著者本文
許慎は、後漢の時代、汝南郡召陵、いまの河南省の漯河のあたりに生まれた。字は叔重という。生まれた年も亡くなった年もはっきりせず、58年頃に生まれて148年頃に亡くなったと推定されている。彼が生きたのは、後漢の成立から半世紀ほどがたち、儒学が国の学問として重んじられていた時代だった。同じ頃、宮廷の宦官蔡倫が紙の作り方を改め(蔡倫の製紙法)、西の果てでは班超が西域を治めていた(班超の西域経営)。

当時の儒学の世界には、大きな対立があった。秦の焚書のあと、漢の初めに学者たちの記憶や伝えをもとに、その時代の文字である隷書で書き直された経典を重んじる今文の学派と、のちに古い家の壁の中などから見つかった、古い文字で書かれた経典を重んじる古文の学派である。どちらのテキストを正しいとするかによって、経典の読み方も、そこから導かれる政治の考え方も変わった。許慎は、古文の学の大家だった賈逵に学び、古文の側に立つ学者として育った。
許慎の学識は群を抜いていた。同じ時代の人々は、五経に通じることでは並ぶ者のない許叔重、と言ってたたえたと『後漢書』は伝えている。彼は郡の役所で働いたのち、中央の役所で学問に関わる職に就き、地方の県の長も務めた。だが、彼の名を後世に残したのは、役人としての仕事ではなく、一冊の本だった。
その本、『説文解字』の本文は、西暦100年頃にできあがった(『説文解字』)。許慎は、当時知られていた漢字9353字を集め、それを540の部首に分けて並べた。そして一字ずつ、その字の古い形である小篆を掲げ、意味を説明し、なぜその形になったのかを解き明かした。異なる書き方の字も千あまり添えた。漢字を部首で分類して並べるという方法は、この本が初めて体系的に行ったものである。

許慎がこの本を書いた理由は、自ら書いた序文に述べられている。当時、隷書の形から勝手に字の意味をこじつける俗説が広まっていた。たとえば、長という字は馬の頭に人がついた形だ、といった類の説である。許慎は、こうした説は字の本来の成り立ちを知らない者のでたらめだと批判した。字の意味を正しく知るには、隷書より古い形にさかのぼらなければならない。それは、経典を正しく読むための土台でもあった。
序文で許慎は、伝説の倉頡が鳥や獣の足跡を見て文字を作ったという話から書き起こし、文字の歴史をたどっている。そして、漢字の成り立ちを六つの型に分ける六書を説明した。物の形をかたどった象形、目に見えない事柄を印で示す指事、意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせた形声、意味を合わせた会意、そして転注と仮借である。また、単独の形から生まれた字を文、文を組み合わせて生まれた字を字と呼び分けた。本の名の説文解字は、文を説き、字を解く、という意味である。
本ができてから20年ほどたった121年、許慎の息子の許沖が、この本を安帝に献上した。そのとき許慎は病のため家にいたという。許慎は経典の解釈の違いを論じた『五経異義』という本も書いた。のちに後漢の大学者鄭玄がこれに反論する本を書いたことが知られているが(鄭玄の経学)、『五経異義』そのものは失われ、断片しか残っていない。
『説文解字』は、その後の漢字の研究の出発点になった。後の時代の字書は、部首で字を並べるという許慎の方法を受け継ぎ、清の時代の康熙字典は、540の部首を214にまとめて整理した。宋の初めには徐鉉らがこの本を校訂し、清の時代には段玉裁が長い年月をかけて詳しい注を付けた。段玉裁の注釈によって、『説文解字』は二千年近くを経て、改めて読み直されることになった。
19世紀の終わりに甲骨文字が発見されると、許慎が見ることのできなかった、さらに古い漢字の姿が明らかになった。その中で、許慎の説明が誤っていたことが分かった字も少なくない。だが、甲骨文字や青銅器の銘文を読み解くとき、学者たちが最初に手に取るのは、いまも『説文解字』である。古い文字と、私たちが使う漢字とをつなぐ橋として、この本は二千年近く使われ続けている。故郷の漯河には、許慎の墓と、後の時代に建てられた祠がある。