人物

ポリュビオス

Polybius
BC200年頃 – BC118年頃(享年82・推定)
アカイア同盟重要度 3

概要

ギリシア人の歴史家。ポエニ戦争の同時代史料『歴史』を書いた。

所属

アカイア同盟

関わったできごと(1)

ポリュビオス『歴史』BC140年頃 · 著者

本文

紀元前200年頃、ペロポネソス半島の山あいの町メガロポリスに生まれた。父のリュコルタスは、ギリシアの町々の同盟であるアカイア同盟の指導者の一人だった。若いポリュビオスは、同盟の英雄フィロポイメンが死んだとき、その遺骨の壺を運ぶ役を務めている。政治と戦争のただなかで育ち、30歳を過ぎたころには同盟の騎兵長官に選ばれた。

ポリュビオスの石碑
ポリュビオスの石碑Wikimedia Commons Jona Lendering, Livius Onderwijs · Public domain

そのころ、ローマとマケドニアのペルセウスが戦っていた。アカイア同盟はローマの味方だったが、同盟の中には、ローマに頼りきることを危ぶむ人々もいた。ポリュビオスの父もその一人とみられていた。紀元前168年のピュドナの戦いでマケドニアが敗れると、ローマはギリシアの町々で、自分たちに十分に忠実でなかった者を洗い出した。

ピュドナの後にローマへ人質として送られた1000人の一人になる。裁かれることもないまま、多くはイタリアの町に散らされて忘れられた。だがポリュビオスはローマに留め置かれ、そこで、ピュドナの勝者アエミリウス・パウルスの息子と知り合った。きっかけは本の貸し借りだったと彼自身が書いている。18歳ほどの若者は、自分が兄のように弁舌の立つ人間ではないと悩みを打ち明け、ポリュビオスは助けると約束した。この若者がのちの小スキピオである。ポリュビオスはその家庭教師兼友人になり、狩りにも戦場にも付き従った。

マルクス・トゥッリウス・キケロ(カピトリーノ美術館)
マルクス・トゥッリウス・キケロ(カピトリーノ美術館)Wikimedia Commons Wilfredor · CC0

人質の身でありながら、ローマの名門の内側からローマを見ることができた。その経験が、彼に一つの問いを抱かせた。わずか53年足らずのあいだに、どうしてローマは人の住む世界のほとんどを支配するに至ったのか。紀元前220年から、ピュドナの紀元前168年までのことである。

17年後の紀元前150年、生き残った人質たちに帰国が許された。300人ほどに減っていた。それでも、ローマとの縁は切れなかった。紀元前146年、小スキピオがカルタゴを攻め落としたとき(カルタゴ滅亡)、ポリュビオスはその場にいた。燃える町を見ながら、スキピオがホメロスの詩を口ずさみ、いつかローマにも同じ日が来るだろうと涙を流した、と彼は書き残した。同じ年、ギリシアではコリントスが破壊された(コリントス破壊)。ポリュビオスはギリシアに戻り、ローマの支配の下での町々の新しい決まりを整える仕事を任された。ギリシアの人々は、彼の像を各地に建ててその労に報いたという。

カルタゴ滅亡に関わる図版:Catapulta by Edward Poynter
カルタゴ滅亡Wikimedia Commons Edward Poynter · Public domain

書いたのは40巻の『歴史』で(ポリュビオス『歴史』)、残っているのは最初の5巻と多数の断片になる。第一次ポエニ戦争から説き起こし、第二次ポエニ戦争を中心に、ローマが地中海を手に入れるまでを書いた。最初の計画はピュドナまでだったが、のちにカルタゴとコリントスの破壊まで書き足している。

方法として重んじたのは、現地を見ることと、関係者に直接聞くことだった。ハンニバル・バルカが越えたアルプスの峠を自分で越えて確かめたと書いている(ハンニバルのアルプス越え)。小スキピオの艦隊を借りて、アフリカの大西洋岸を探検したこともあった。机の上だけで歴史を書く者を、彼は厳しく批判した。先輩の史家ティマイオスが図書館にこもって書いたことを、何ページにもわたって責めている。

出来事の面白さより、なぜそうなったかの説明を優先する。カンナエの戦いの大敗の後もローマが崩れなかった理由を、彼は第6巻で、ローマの国の仕組みに求めた。執政官という王の要素、元老院という貴族の要素、民会という民衆の要素が混ざり合い、互いに抑え合うことで、どれか一つに偏った国よりも長く安定する、という見方である。国の形は王政から僭主政、貴族政、寡頭政、民主政、衆愚政へと移り変わってまた王政に戻る、という循環の説もここで述べた。

カンナエの戦いに関わる図版:The Death of Paulus Aemilius at the Battle of Cannae (Yale University Art Gallery scan)
カンナエの戦いWikimedia Commons John Trumbull · Public domain

技術にも関心が強かった。のろしで遠くへ文字を送る方法を考え、アルファベットを5列5行の表に並べて、松明の数で文字を表す仕組みを書き残している。

晩年まで旅を続け、82歳のころ、馬から落ちて死んだと伝えられる。紀元前118年頃のことになる。

モンテスキュー
モンテスキューWikimedia Commons After Jacques-Antoine Dassier · Public domain

ギリシア人として、征服した側のローマを内側から書いたポリュビオスの『歴史』は、後のローマの史家リウィウスにも使われた。第6巻の混合政体の考え方は、ルネサンスのマキアヴェッリを経て、モンテスキューの三権分立の考え方や、アメリカ合衆国の憲法を作った人々にまで読まれた。歴史の書き方として、この姿勢は後に手本とされた。

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