概要
足利義満が、京都と鎌倉の禅寺に序列を定めた。南禅寺を五山の上に置き、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山とした。幕府が住持を任命し、寺は幕府の外交(明との勘合貿易の文書)と、財政(祠堂銭の金融)を担った。五山の僧が漢詩文を作り、宋学を読み、印刷し(五山版)、日本の学問の中心になった。禅が、政治の制度になった。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
本文
禅は、鎌倉時代に、宋から来た。栄西(臨済宗、1191年)、道元(曹洞宗、1227年)。北条氏が保護し、蘭渓道隆と無学祖元(宋から来た僧)が鎌倉に寺を開いた。禅僧は、宋と元の言葉と、事情を知っていた。だから、外交と貿易の実務にも使われた。
五山十刹。もとは南宋の官寺の制度(径山、霊隠寺など「五山」を国が定め、住持を任命した)。日本が、それを真似た。
鎌倉幕府が始め、建武の新政と室町幕府が整えた。1386年(至徳3年)、足利義満が定めた形が、その後の基本になった。
京都五山。天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。 鎌倉五山。建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。 そして、南禅寺を「五山の上」に置いた。
その下に十刹、さらに諸山、林下(五山に入らない寺。大徳寺と妙心寺は、この外にあった。だから幕府と距離を置き、後に一休宗純と、茶の湯の人々の場になった)。
幕府は「僧録司」を置いて、住持の任命を管理した(初め春屋妙葩、後に相国寺鹿苑院が担った)。住持の任期は短く(数年)、次々に別の寺へ移る。任命には礼銭が要った。寺は幕府の財源でもあった。
寺の仕事。(1)外交。明との勘合貿易の国書を、五山の僧が漢文で書いた。使節としても行った(1401年の最初の遣明船に、祖阿と肥富。以後、正使・副使に五山僧)。朝鮮との外交文書も。(2)金融。祠堂銭(供養のために寄進された金)を元手に、高利で貸した。土倉と並ぶ京都の金融。(3)荘園経営。(4)学問。
五山文学。漢詩文。義堂周信、絶海中津(義満に仕え、明の洪武帝と詩を応酬した)、雪村友梅。宋学(朱子学)は、まず禅僧が読み、注釈した(桂庵玄樹が薩摩へ伝え、後の南学と、江戸の朱子学の一つの源になった)。
五山版。寺が本を印刷した。仏典だけでなく、『論語集注』『史記』『文選』『杜詩』、そして中国の医書と字書。宋元の版本を、そのまま覆刻した。日本で最初期の、本格的な出版。
雪舟は相国寺で学んだ。夢窓疎石の系統が庭を作った。茶と、書院の飾りと、水墨画と、漢詩が、禅寺の中で結びついた。
応仁の乱で、京都五山の多くが焼けた。幕府が弱ると、任命の制度も、財源も崩れた。大徳寺と妙心寺(林下)が、地方の大名と町衆の帰依を得て伸びた。戦国の茶人は、大徳寺に参禅した。
禅が、幕府の制度になったこと。そして、その制度が崩れたときに、禅が、別の場所(茶室、庭、地方の寺)へ移ったこと。日本の文化の多くが、その二つの段階から来ている。