できごと

五山の制

The Gozan system
AD1386年
重要度 4
シベリアの諸集団明チベットパガン朝スコータイ朝日本クメール帝国高麗大越アユタヤ朝大越アイヌモシリチャンパAD1386年京都
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概要

足利義満が、京都と鎌倉の禅寺に序列を定めた。南禅寺を五山の上に置き、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山とした。幕府が住持を任命し、寺は幕府の外交(明との勘合貿易の文書)と、財政(祠堂銭の金融)を担った。五山の僧が漢詩文を作り、宋学を読み、印刷し(五山版)、日本の学問の中心になった。禅が、政治の制度になった。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

本文

禅は、鎌倉時代に中国の宋から日本へ伝わった。栄西と臨済宗によって臨済宗が、道元によって曹洞宗がもたらされ、鎌倉の北条氏は、宋から招いた蘭渓道隆や無学祖元のために建長寺や円覚寺を建てた。禅僧は、中国の言葉と文字に通じ、大陸の事情を知っていた。そのため、信仰の師であるだけでなく、学問と外交の担い手としても重んじられた。

五山という仕組みは、南宋の制度にならったものである。南宋の朝廷は、杭州の径山や霊隠寺など禅の大寺を「五山」と定めて格付けし、住持を国が任命した。日本では鎌倉幕府の末にこれをまねた格付けが始まり、後醍醐天皇の建武の新政、室町幕府の成立と、時の権力者が入れ替えを重ねた。1386年、3代将軍足利義満が定めた順位が、その後の基本となった。

日本の五山制度全体を統括した京都・南禅寺
日本の五山制度全体を統括した京都・南禅寺Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Fg2 assumed (based on copyright claims). · Public domain

京都五山は、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。そして南禅寺を、そのすべての上に置いた。義満が自ら建てた相国寺を五山に入れるため、南禅寺を別格に引き上げたのである。五山の下には十刹、さらにその下に諸山と呼ばれる寺々が連なり、全国の禅寺が一つの序列の中に並べられた。

幕府は僧録という役を置き、住持の任命を取りしきらせた。最初に任じられたのは、夢窓疎石の弟子の春屋妙葩で、のちに相国寺の塔頭の鹿苑院がこの役を引き継いだ。住持の任期は数年と短く、僧は格の低い寺から高い寺へと移っていく。任命のたびに、幕府には礼の銭が納められた。寺の序列は、そのまま幕府の財源でもあった。

杭州・法喜寺の山門にある布袋(弥勒仏の化身とされる高僧)の像
杭州・法喜寺の山門にある布袋(弥勒仏の化身とされる高僧)の像Wikimedia Commons zhiyin586@163.com · CC BY 3.0

五山の僧には、さまざまな仕事があった。一つは外交である。義満が明との国交を開くと(明の成立から30年あまり後)、明の皇帝へ送る国書を漢文で書いたのは五山の僧で、遣明船の正使や副使にも五山の僧が選ばれた。朝鮮とのやりとりも同じだった。もう一つは金融である。寺には、亡き人の供養のために寄進された銭が集まり、それを元手に利子を取って貸し付けた。五山は京都の土倉と並ぶ金融の担い手でもあった。

そして学問である。五山の僧たちは漢詩や漢文を競って作り、その作品は五山文学と呼ばれる。義堂周信や絶海中津がその代表で、絶海は若い頃に明へ渡り、明の太祖洪武帝の前で詩を詠んだと伝えられる。中国で新しく興った朱子学の成立の書物を最初に読み、講じたのも禅僧だった。その流れの一人、桂庵玄樹は薩摩に招かれて朱子学を教え、のちの江戸時代の儒学の源の一つとなった。寺はまた本を印刷した。仏典だけでなく、『論語』の注釈書や中国の詩文集、医書、字書まで刷り、それは五山版と呼ばれる。日本で最も早い本格的な出版の一つである。

夢窓疎石が作った天龍寺の庭園。京都五山の首位
夢窓疎石が作った天龍寺の庭園。京都五山の首位Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

禅寺は、美の場でもあった。雪舟は相国寺で修行しながら絵を学び、夢窓の流れを汲む僧たちが庭を作った(夢窓疎石と禅の庭)。書院の飾り、水墨画、漢詩、茶が、禅寺の中で結びつき、北山文化と金閣に代表される北山の文化を彩った。

だが、制度はやがて崩れた。応仁の乱で京都の五山の多くは焼け、幕府の力が衰えると、住持の任命の仕組みも、そこから上がる銭も細っていった。代わって伸びたのが、五山の序列の外にいた大徳寺や妙心寺である。幕府と距離を置いていたこれらの寺は、地方の大名や都市の商人の帰依を集め、風狂の僧一休宗純も、のちの茶人たちも、大徳寺に集った。

応仁の乱に関わる図版:Onin-War-1467-1477-The-Battle-of-Onin-by-Utagawa-Yoshitora
応仁の乱Wikimedia Commons Utagawa Yoshitora · Public domain

禅は、まず幕府の制度として日本の政治と学問の中心に入り込み、その制度が崩れると、茶室や庭、地方の寺へと場所を移した。日本の文化の多くは、その二つの段階を通って形づくられている。

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