ラズィーヤの即位
概要
デリー・スルタン朝で唯一の女性の君主。4年で貴族に廃され、殺される。
場所
28.61°N 77.21°E · インド
関わった人(1)
ラズィーヤAD1205年頃–AD1240年10月15日 · 当人本文
13世紀の北インドを治めたデリー・スルタン朝の成立は、トルコ系の奴隷出身の軍人たちが立てた国だった。中央アジアから売られてきた少年たちが、主人のもとで兵として育てられ、才覚しだいで将軍にも王にもなった。ラズィーヤの父イルトゥトゥミシュも、そうして身を起こした人である。主君の娘婿となり、1211年にスルタンの位に就いて、25年にわたり国の土台を固めた。
イルトゥトゥミシュには息子が何人もいたが、跡継ぎと見込んだ長男は早くに死んだ。残る息子たちは頼りにならなかった。遠征で都を離れたとき、彼は娘のラズィーヤにデリーの留守を任せ、その働きぶりを見て、彼女を後継に指名したと伝えられる。息子たちより娘のほうが国を治めるのに向いている、と語ったという話も残る。

北からは、モンゴル帝国の拡大の影が迫っていた。1221年、チンギス・カンに追われたホラズムの王子がインダス川を越えて逃げてきたとき、イルトゥトゥミシュは彼をかくまうことを断り、モンゴル軍を呼び込むのを避けた。国を守るには、内の結束が欠かせない時代だった。ラズィーヤが殺された翌年、モンゴル軍は西北の大都市ラホールを略奪している。
1236年4月にイルトゥトゥミシュが死ぬと、貴族たちは遺言を退け、息子のルクヌッディーンを位に就けた。新しいスルタンは遊びにふけり、政治は母后が握って、敵と見た者を次々に除いた。各地で反乱が起きる。
ラズィーヤは都の人々に直接訴えた。金曜の礼拝に集まった群衆の前に、救いを求める者のしるしである赤い衣を着て現れ、母后の横暴を訴えたと伝えられる。民衆は宮殿へ押し寄せ、軍の一部もこれに加わった。1236年の秋、ルクヌッディーンは退けられ、ラズィーヤがスルタンの位に就いた。
即位したラズィーヤは、女性の衣と顔を覆う布をやめ、男性と同じ上着と帽子で人前に出た。象に乗って市中を進み、自ら訴えを聞き、軍を率いて反乱の鎮圧に出た。発行した貨幣には、スルタンとしての自分の名を刻んでいる。

彼女に従わなかったのが、父の代から仕えてきたトルコ系の有力な奴隷軍人たちだった。「四十人」と呼ばれる彼らは、自分たちの中から王を選び、操る力を持っていた。女性が自分たちの上に立ち、しかも自分で決めて動くことを、彼らは受け入れなかった。
ラズィーヤは、アフリカ出身のヤークートという人物を厩舎の長に取り立てた。トルコ系の貴族でない者を要職に就けたことは、彼らの怒りをさらに買った。二人の仲を男女の関係として描く話は後の時代に広まったもので、同時代の記録からは確かめられない。

1240年、北西のバティンダの総督アルトゥーニヤが背いた。鎮圧に向かったラズィーヤは捕らえられ、ヤークートは殺される。その間にデリーでは、貴族たちが彼女の弟を新しいスルタンに立てた。ラズィーヤは捕らえた側のアルトゥーニヤと結婚して手を組み、都を取り戻そうと兵を進めたが、敗れた。逃れる途中で殺されたとされる。在位は4年に満たなかった。
同時代の年代記作者ミンハージュ・スィラージュは、彼女を偉大な君主と呼び、王としての資質をすべて備えていたと書いた。そのうえで、女性として生まれたことが、男たちの目には欠点に映った、と書き添えている。たたえる側の文章にも、その一点がついて回った。

ほぼ同じ頃、エジプトでも女性がスルタンの位に就いている(シャジャル・アッ=ドゥッルの即位)。彼女もまた、軍人たちの思惑の中で短い在位を終えた。デリーの諸王朝の歴史で、女性がスルタンになったのはラズィーヤただ一人である。彼女の生涯は、のちに映画や小説の題材となり、インドで女性の統治者を語るときに、繰り返し名の挙がる人物になった。