人物

マルクス・トゥッリウス・ティロ

Marcus Tullius Tiro
BC103年頃 – BC4年頃(享年99・推定)
ローマ共和国重要度 3

概要

キケロ家の奴隷として生まれ、BC53年に解放された。以後、主人の姓を名乗る。秘書であり、書記であり、校正者であり、そして事実上の共同編集者だった。キケロの書簡と演説の多くは、彼が写し、整理し、死後に編纂したものである。速記の体系を作ったとされ、その記号はティロ式と呼ばれた。健康を害しやすく、キケロが心配する手紙が残っている。主人が殺された後も長く生き、伝記を書いたと伝えられるが、失われた。

関わったできごと(1)

ティロの速記BC63年 · 体系を作った

本文

マルクス・トゥッリウス・ティロの生まれた年も死んだ年も、確かなことは分からない。4世紀の教父ヒエロニュムスが、彼は百歳まで生きたと書いており、そこから紀元前103年ごろに生まれ、紀元前4年ごろに死んだと逆算されている。

ティロ式速記法の記号表(シュミッツ編、1893年)
ティロ式速記法の記号表(シュミッツ編、1893年)Wikimedia Commons Wilhem Schmitz · Public domain

ティロは、ローマの政治家で雄弁家のキケロの家に、奴隷として生まれた。家の中で働く奴隷で、読み書きとギリシア語の教育を受けた。有能な奴隷に教育を授けるのは、当時のローマの裕福な家では珍しくない、いわば投資だった。ティロという名は、ラテン語で新兵、つまり新米を意味する。奴隷に付けられたそんなありふれた名前が、のちに千年以上も残ることになる。

彼はキケロの書記として働いた。キケロが歩きながら、あるいは寝椅子に横たわって口述する言葉を書き取り、手紙や演説の原稿を清書した。それだけではない。キケロは原稿の手直しを彼に任せ、財産や別荘の管理もさせ、ときには事の判断について意見を求めた。秘書であり、校正者であり、相談相手でもあったのである。

紀元前53年、50歳前後のティロは奴隷の身分から解き放たれた。キケロの弟クィントゥスが兄に送った手紙が残っていて、ティロを解放したと聞いてとてもうれしい、彼はわれわれの奴隷であるより友であるほうがふさわしい、という趣旨のことを書いている。解放された奴隷は元の主人の氏族の名を名乗る習いで、彼はそれからマルクス・トゥッリウス・ティロと名乗った。

キケロの書簡集には、ティロにあてた手紙がまとまって残っている。紀元前50年、キケロが任地から帰る途中、ティロはギリシアのパトラエで病に倒れ、置いていかれることになった。キケロはその後、次々と手紙を書き送った。お前のことが気がかりで心が休まらない、急いで来ようとして無理な船旅をしてはならない、回復することだけを考えよ、といった調子である。主人が解放奴隷にあてたものとしては異例なほど親密で、二人の深い信頼を物語っている。もっとも、その親しさの下に、もとは主人と所有物という関係があったことも見落とせない。この関係をどう読むかは、研究者のあいだでも議論がある。

ティロの名は、速記と結びついて残った。キケロが執政官だった紀元前63年、元老院での論争を書記たちが記号で書き留めたという話を、ギリシアの著述家プルタルコスが伝えている。7世紀の学者イシドルスは、ラテン語の速記の記号を最初に考えたのはティロだと記した。もっとも、ギリシアにはそれより前から速記の試みがあり、ティロが一人で一から作り上げたとは考えにくい。既にあった工夫をラテン語に合わせて体系に組み立てたのが彼だった、と見るのが妥当だろう(ティロの速記)。「ティロの記号」と呼ばれたこの速記は、ローマ帝国の滅亡後も中世の修道院などで使われ続け、千年以上生き延びた。

紀元前44年にガイウス・ユリウス・カエサルが暗殺されると、キケロはマルクス・アントニウスを激しく攻撃する演説を重ねた。翌年、アントニウスたちが政敵の名簿を作って粛清を始めると、キケロもその名簿に載せられ、紀元前43年12月7日に殺された。切り落とされた頭と手は、ローマの広場の演壇にさらされたと伝えられる。

ティロは生き延びた。そして主人の遺した言葉を守る仕事に取りかかった。いま残っているキケロの手紙は900通ほどあり、親友アッティクスにあてたもの以外の多くは、ティロが集めて編んだと考えられている。演説の原稿を整え、主人の機知に富んだ言葉を集め、キケロの伝記も書いたと伝えられるが、伝記は失われた。

キケロの書簡は、共和政末期のローマの政治の駆け引きから日々の暮らしの細部までを生々しく伝える、最も豊かな史料の一つである。それが今日まで残ったのは、かつて奴隷だった一人の秘書が、主人の死後に丹念に整理したおかげだった。

ヒエロニュムスによれば、ティロはナポリ湾に近いプテオリの自分の農園で晩年を過ごし、百歳まで生きた。その数字をそのまま信じる必要はないが、長生きだったことは確かなようである。

彼の速記の記号のうち、ラテン語の「と」を表す記号は、とりわけ長く生き残った。数字の7に似たその形は、中世の写本で広く使われ、アイルランドではいまも、アイルランド語の「と」を表す記号として道路標識などに見ることができる。新米という名の奴隷の筆の跡が、2000年後の街角に残っているのである。

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