できごと

『直指』の印刷

Jikji
AD1377年
重要度 5
シベリアの諸集団明チャガタイ汗国チベットパガン朝スコータイ朝日本クメール帝国高麗大越大越アユタヤ朝オリッサアイヌモシリチャンパAD1377年清州
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1377年の版図を描いています(15勢力)。

概要

清州の興徳寺で、白雲和尚の編んだ禅の語録を、金属活字で刷った。現存する世界最古の金属活字本。グーテンベルクの78年前。下巻1冊がフランス国立図書館にある(フランスの駐朝公使コラン・ド・プランシーが集めて持ち帰り、1950年に寄贈された)。朝鮮では1234年に金属活字で刷った記録があり(現物は残らない)、1403年からは国家が鋳字所を置いた。

場所

清州
36.64°N 127.49°E · 韓国・忠清北道

本文

正式の題は『白雲和尚抄録仏祖直指心体要節』という。高麗の禅僧、白雲景閑(1298〜1374年)が、インドと中国の歴代の祖師の語録や問答から、悟りの要点を抜き書きして上下2巻にまとめた本である。「直指心体」は、禅の標語「直指人心、見性成仏」(人の心をまっすぐ指し示し、自分の本性を見て仏となる)から取られている。白雲は元に渡って臨済宗の僧に学び、帰国後は王に招かれることもあったが、多くは地方の寺で弟子を育てて暮らした。この本は、その晩年の教えを弟子のために編んだものだった。

白雲が亡くなって3年後の1377年7月、清州(いまの忠清北道)の郊外にあった興徳寺で、弟子の釈璨と達湛が、尼僧の妙徳の寄進を受けて、この本を鋳造した金属の活字で刷った。都の開京(開城)ではなく、地方の一寺院での仕事である。巻末に「宣光七年丁巳七月 日 清州牧外興徳寺鋳字印施」と刷り込まれている。宣光は北元の年号で、宣光7年は1377年にあたる。「清州牧の外の興徳寺で、字を鋳て印刷し、施した」という意味で、この一行が、いつ・どこで・どうやって作られたかを証明している。

金属活字本。現在はフランスにある
金属活字本。現在はフランスにあるWikimedia Commons Authored by Baegun Hwaseng (1289-1374), a master of Seon Buddhism in Korea, and published by his students, Seokchan and · Public domain

刷り上がりは、のちの朝鮮王朝の官版にくらべると粗い。字の大きさや並びがそろわず、行が傾き、墨の濃淡にむらがある。国家の工房ではなく寺の僧たちが手がけた印刷で、技術がまだ広く行き渡っていなかったことをうかがわせる。活字の作り方については、木に字を彫って砂の型に押しつけ、溶けた銅を流す砂型の方法だったとする見方と、蝋で字の原型を作って型を取る蝋型の方法だったとする見方がある。

上巻は失われ、いま残るのは下巻1冊、38葉だけである(最初の1葉も欠けている)。それがソウルではなく、パリのフランス国立図書館にある。1886年に朝鮮とフランスが修好通商条約を結んだあと、フランスの外交官として漢城に駐在したコラン・ド・プランシー(在任1888〜91年、1896〜1906年)は、朝鮮の書籍や陶磁器を熱心に集めた。『直指』はその一冊で、彼はこれが古い活字本だと気づいていたらしく、表紙に「鋳字で刷られた最古の朝鮮の本、1377年」という趣旨のフランス語の書き込みを残したとされる。1911年、パリの競売で、宝石商で収集家のアンリ・ヴェヴェールが180フランで落札した。ヴェヴェールの死後、遺志により1950年に国立図書館へ寄贈された。

それから20年あまり、この本は書庫の東洋写本の中に埋もれていた。1967年から同館に勤めていた韓国出身の司書、朴炳善がこれを見つけ出し、1972年の「国際図書年」の記念展示に出品して、現存する世界最古の金属活字本として紹介した。グーテンベルクの活版印刷の『42行聖書』(1455年ごろ)より78年早い。東アジアの印刷史に関心のなかった欧米の研究者にとって、この展示は驚きだった。

グーテンベルクの活版印刷に関わる図版:Gutenberg press
グーテンベルクの活版印刷Wikimedia Commons International Printing Museum · CC0

もっとも、『直指』が朝鮮半島で最初の金属活字本だったわけではない。高麗の文人李奎報の文集『東国李相国集』には、1234年から1241年のあいだに、儀礼の書『詳定古今礼文』28部を「鋳字」で刷ったと書かれている。現物は残っていない。1239年刊の『南明泉和尚頌証道歌』は、金属活字で刷った本を木版に彫り直した覆刻本だとする説が有力である。モンゴルの侵入で都を江華島に移していた時代に、木版の高麗版大蔵経と並んで、金属の活字も使われていたことになる。活字そのものの発想は、北宋の畢昇が11世紀に作った膠泥(粘土)の活字にさかのぼる(畢昇の活字)。

なぜ朝鮮半島で金属活字が育ったのか。よく挙げられる理由は三つある。第一に、読者が官庁と両班の学者にかぎられ、本の種類は多いが一種類あたりの部数は少なかった。木版は一度彫れば何千部でも刷れるが、少部数の本を次々に出すには、組み替えのきく活字のほうが割に合う。第二に、国家が出版を握っていた。朝鮮王朝の成立ののち、1403年に太宗が鋳字所を設けて銅活字「癸未字」を鋳造し、1434年には世宗が美しい「甲寅字」を作らせた。王朝を通じて、新しい活字は何十回も鋳直された。第三に、仏像や梵鐘を鋳る銅の技術の蓄積があった。

『直指』の印刷されたページ
『直指』の印刷されたページWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ただし、印刷のやり方はヨーロッパとはまるで違った。15世紀末の成俔『慵斎叢話』によれば、朝鮮では木に字を彫り、海辺の葦の生える泥を固めた型に押して凹みを作り、そこへ銅を流した。活字は一つずつ微妙に形が違い、版に組むと高さがそろわないので、蝋や竹片で固定した。墨は水性で、紙を上からはけでこするようにして刷った。グーテンベルクは、鋼の父型を銅に打ち込んで母型を作り、手で持つ鋳込み器で鉛の合金を流して、同じ形・同じ高さの活字を大量に速く作った。そこへ油性のインクと、ぶどう搾りの圧搾機を応用した印刷機を組み合わせた。一日に刷れる枚数は桁が違い、印刷は商売になった。

朝鮮の技術がヨーロッパに伝わったかどうかは、証拠がない。モンゴル帝国の交易路を通じて何らかの知識が流れた可能性を論じる研究者はいるが、推測の域を出ない。グーテンベルクの方式は、合金・鋳込み器・印刷機・インクを一体にした独自の発明と見るのがふつうである。

『直指』の金属活字版の復元
『直指』の金属活字版の復元Wikimedia Commons Kjoonlee · CC BY 4.0

1985年、清州の雲泉洞で寺の跡が発掘され、「興徳寺」と刻まれた青銅の器が出た。『直指』の巻末に書かれた寺の場所が確かめられ、近くに古印刷博物館が建てられた。2001年、『直指』はユネスコの「世界の記憶」に登録され、のちにユネスコの「直指賞」も設けられた。韓国は返還を求め続けているが、フランス側は正当な手続きで寄贈された国有財産だとして応じていない。2023年、フランス国立図書館の印刷史の展覧会で、50年ぶりに一般に公開された。

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