箸墓古墳

概要
奈良盆地の南東、纒向。全長280メートル、最初の巨大前方後円墳。『日本書紀』は倭迹迹日百襲姫の墓と言い、「昼は人が作り、夜は神が作った」。2009年の年代測定で3世紀中頃。卑弥呼の死んだ頃。卑弥呼の墓と言う人と、違うと言う人。宮内庁が管理し、掘れない。
場所
34.54°N 135.84°E · 奈良県桜井市
本文
奈良盆地の南東、神の山として古くから仰がれた三輪山の西の麓に、纒向と呼ばれる一帯がある。ここで3世紀の初めごろから、それまでの村とは違う大きな集落が営まれはじめた。土器を調べると、東海、北陸、山陰、吉備、河内など、各地から運ばれてきたものが大量に混じっている。各地の人びとが集まる、政治の中心のような場所だったと考えられている。2009年には、3世紀前半の大きな建物の跡が、軸をそろえて並んだ状態で見つかった。翌年にはその近くの穴から2000個を超える桃の種が出て、祭りの儀礼に使われたのではないかと注目を集めた。
その纒向に、3世紀の中ごろ、とてつもなく大きな墓が築かれた。箸墓古墳である。全長はおよそ280メートル、円い後円部の直径は約150メートル、高さは約30メートル。四角い前方部は、先へ行くほど撥のように広がる。それ以前の弥生時代の墓は、大きなものでも長さ100メートルに届かなかった。箸墓はそれを一気に何倍も上回る規模で築かれた、最初の巨大な前方後円墳とされる。墳丘からは、吉備で作られた儀礼用の土器の流れをくむ器台の破片が見つかっており、吉備の勢力との深い結びつきもうかがわれる。

前方後円墳という形は、ここから列島の各地に広がった。東北の南部から九州の南部まで、各地の有力者が同じ形の墓を築くようになり、その数は全国で5000基ほどにのぼる。墓の大きさは、ヤマトの王を頂点とする序列を表していたと考えられている。5世紀には大阪平野に、長さ480メートルを超える大仙陵古墳のような巨大な墓が現れる。中国の南朝に使いを送った倭の五王の時代にあたる。前方後円墳が造られなくなる6世紀の末から7世紀の初めまで、およそ350年のあいだ、この形が列島の権力の姿だった。箸墓は、その時代の始まりを告げる墓になる。
奈良時代に編まれた『日本書紀』は、崇神天皇の時代の話として、この墓の由来を語っている。天皇の叔母の倭迹迹日百襲姫命は、三輪山の神の大物主神の妻になった。夫は夜にしか来ず、昼に姿を見せない。姫が姿を見たいと願うと、神は、明日の朝お前の櫛箱の中にいよう、ただし驚くな、と答えた。朝、姫が櫛箱を開けると、美しい小さな蛇がいた。姫が驚いて叫ぶと、神は人の姿に戻り、恥をかかせたと言って空を踏んで三輪山へ帰った。姫は悔いて座り込み、箸で陰部を突いて死んだ。そこで葬られた墓を箸墓と呼ぶ、という。墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を、山から墓まで人が並んで手渡しで運んだ、とも書かれている。
いま箸墓古墳は、宮内庁が倭迹迹日百襲姫命の墓「大市墓」として管理しており、研究者であっても自由に立ち入って調べることはできない。発掘ができないため、分かっていることの多くは、墳丘の周りでの調査や、宮内庁の小規模な調査、墳丘から採集された遺物から得られたものになる。2013年には初めて、考古学や歴史学の学会の代表者たちが、墳丘の裾の部分に立ち入って観察することが認められた。
この墓が誰のものか、という問いには特別な重みがある。中国の歴史書『三国志』のいわゆる卑弥呼の遣使の記事を含む部分、通称『魏志倭人伝』は、倭の女王卑弥呼について、卑弥呼が死ぬと大きな塚を作った、その径は百余歩である、と記している。卑弥呼が死んだのは、記事の並びから247年かその少し後と考えられている。魏の時代の1歩はおよそ1.4メートルで、百余歩は150メートル前後になる。箸墓の後円部の直径とほぼ重なる。
2009年、国立歴史民俗博物館の研究グループが、箸墓古墳の周りの濠から出た土器に付いた炭化物を放射性炭素で測り、古墳が築かれたのは240年から260年ごろだと発表した。卑弥呼が死んだ時期と重なる年代である。これを受けて、箸墓を卑弥呼の墓とみる説は大きく注目された。
だが、異論も多い。土器の付着物の年代は、測る試料によって古く出ることがあるという指摘があり、土器の型式の移り変わりから見て、築かれたのは3世紀の後半から末ではないかという研究者もいる。そもそも邪馬台国がどこにあったかについて、纒向を含む畿内とする説と、九州とする説の論争は、江戸時代から続いて決着していない。卑弥呼の墓だとしても、その後を継いだ女王、台与の墓だとする説もある。年代と大きさが合っても、それだけで誰の墓かは決まらない。
倭国大乱を経て、各地の勢力が一人の女王を共に立てて争いを収めたと、中国の史書は伝えている。纒向の大きな集落と、そこに突然現れた巨大な墓は、その連合の中心がどこにあったのかを考える上で、最も重要な手がかりの一つになっている。掘れば分かることもあるかもしれない。しかし陵墓として守られている限り、掘ることはできない。箸墓は、日本の国家の始まりをめぐる問いの中心に、静かに横たわっている。