できごと

「失った友」の欄

Lost Friends advertisements
AD1877年から
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国Viceroyalty of Brazilアメリカ合衆国ヌエバ・エスパーニャ副王領ヌエバ・グラナダ副王領スペイン帝国スペインGuianaAD1877年からニューオーリンズ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1877年からの版図を描いています(10勢力)。

概要

奴隷制のもとでは、親子や夫婦が売られて別々の土地へ送られた。解放されたあと、人々はばらばらになった家族を探し始める。ニューオーリンズで出ていたメソジストの週刊紙『サウスウェスタン・クリスチャン・アドヴォケイト』は、「失った友」という欄を設け、尋ね人の広告を無料で載せた。母の名、売られた年、最後にいた農園の主の名。字の読めない人も多いので、牧師は日曜の説教壇からこの欄を読み上げるよう勧められた。二千五百件を超える広告が残っている。再会できたと知らせる便りは、ごくわずかである。

場所

ニューオーリンズ
29.95°N -90.07°E · アメリカ合衆国・ルイジアナ州

本文

アメリカ南部の奴隷制のもとで、奴隷とされた人々の家族は、持ち主の財産の一部にすぎなかった。持ち主が死ねば、財産は相続人のあいだで分けられる。子は長男の取り分に、母は次男の取り分に、と割り振られることもあった。持ち主が借金を抱えれば、人は差し押さえられて競売にかけられた。奴隷どうしの結婚は法律の上では認められておらず、夫婦は別々に売られうるし、幼い子も母から引き離されうる。

19世紀の前半、この引き裂きは大規模になった。1808年に海外からの奴隷の輸入が禁じられる一方で、綿繰り機の普及とともに綿花の畑が南西のミシシッピやルイジアナ、テキサスへ広がっていった。ヴァージニアやメリーランドなど東部の古い農園から、深南部の綿花畑へ、1860年までにおよそ100万人が移されたと推計されている。多くは家族と引き離されての移送だった。ミシシッピ川の河口の港町ニューオーリンズは、その人の売り買いの最大の市場の一つだった。

南北戦争の中で出された奴隷解放宣言に続き、1865年、憲法の修正で奴隷制は全国で廃止された。自由になった人々が真っ先にしたことの一つが、引き離された家族を探すことだった。歩いて昔の農園を訪ね、知っている者がいないか聞いて回る。連邦政府の解放民局に手紙を書いてもらう。そして新聞に尋ね人の広告を出す。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

だが、手がかりはあまりに少なかった。奴隷には自分の姓が無いことが多く、持ち主の姓で呼ばれていた。売られた先では、新しい持ち主の姓に変わっている。名前そのものを付け替えられていることもある。別れたときに幼かった子は、親の顔も、自分がどこで生まれたかも覚えていない。そして、別れから何十年もたっていた。

ニューオーリンズで出ていたメソジスト監督教会の週刊紙『サウスウェスタン・クリスチャン・アドヴォケイト』は、1877年の秋から、「失った友」という欄を設けた。尋ね人の広告を載せる欄で、購読者なら無料、そうでなければわずかな料金で載せた。新聞はメソジストの黒人教会を通じて、ルイジアナだけでなく、テキサス、ミシシッピ、アーカンソーなど南部の各地に届いていた。編集者は各地の牧師に、日曜の礼拝でこの欄を説教壇から読み上げてほしいと呼びかけた。読者の多くは字を読めない。教会に人の集まる日曜が、いちばん多くの耳に届く時だった。

ニューオーリンズの街並み
ニューオーリンズの街並みWikimedia Commons Justin Watt · Public domain

広告の文面には、決まった型がある。探している相手の名前。最後に会った年と場所。そのときの持ち主の名前。母や兄弟の名前、生まれた郡や州。いちばん確かな手がかりは、皮肉なことに、自分たちを所有し、売った者の名だった。ヴァージニアのどこそこ郡の誰それの農園にいた、何年に誰それに売られてニューオーリンズへ連れて行かれた、という書き方で、ばらばらになった家族の道筋が短く記されている。

欄は40年近く続き、2500件を超える広告が残っている。20世紀に入っても載り続けた。別れたときに子どもだった人が、もう老人になって、なお母やきょうだいを探していた。同じ人が、何年にもわたって同じ広告を出し直していることも多い。見つからなかった、ということである。

1720年の地図。左の図は今日のフレンチ・クオーター地区にあたる。
1720年の地図。左の図は今日のフレンチ・クオーター地区にあたる。Wikimedia Commons Public domain

再会はかなったのか。欄には時おり、「この欄のおかげで、何十年ぶりに母に会えた」という知らせが載った。しかし、そうした便りは広告の数に比べればごくわずかだった。多くの人は、探し続けたまま一生を終えたとみられる。

それでも、広告は別のものを残した。奴隷制について残された記録の多くは、売る側、持つ側が作ったものである。売買の証書、農園の帳簿、遺産の目録。そこでは人は名前と値段の並ぶ一行でしかない。この欄には、売られた側が、自分の言葉で、誰と、いつ、どこで、なぜ引き離されたかを書いている。一つの家族の別れが、何十年もの探索とともに記録されている。

歴史の中で、人を探す仕組みは何度も作られてきた。江戸の迷子しるべ石は、同じ町の中ではぐれた子を探すための石だった。この欄が探していたのは、国の半分に散らばった家族である。石の柱一本では足りない。印刷された紙が、教会という網に乗って運ばれ、日曜ごとに声で届けられた。

いま、これらの広告は集められて、名前や地名で引けるようになっている。ニューオーリンズの歴史資料館が新聞を守り、大学の研究者たちが南部各地の同じような広告を集めて、誰でも調べられるようにした。奴隷とされた人々の子孫が、そこに自分の先祖の名を見つけることがある。一人の母が百数十年前に出した尋ね人の広告が、いま、その母が会えなかった子の、さらに子孫に読まれている。

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