卑弥呼
概要
倭の女王。中国の史書にだけ記録が残り、その国がどこにあったのかは決着していない。
関わったできごと(1)
卑弥呼の遣使AD239年 · 当人本文
卑弥呼のことは、中国の史書にしか書かれていない。中心になるのは、3世紀の終わりに西晋の陳寿が書いた『三国志』(陳寿『三国志』)の魏書の中の、東の異民族を記した部分にある倭人の条である。日本では「魏志倭人伝」と呼ばれる。2000字ほどの短い記事で、倭の国々の様子、魏との行き来、そして女王のことが書かれている。

それによれば、倭国ではもとは男が王だったが、70〜80年ほどたって国が乱れ、何年も互いに攻め合った(倭国大乱)。そこで国々が共に一人の女性を王に立てた。それが卑弥呼である。女王の都があったのが邪馬台国で、7万戸あまりの大きな国とされる。
卑弥呼は「鬼道」に仕え、人々をよく惑わした、と書かれる。鬼道が何を指すのかは分からない。神のお告げを聞く巫女のような力だったと考える人が多いが、中国の道教に通じる呪術とみる説もある。すでに年はかなり上で、夫はいなかった。弟がいて、国を治めるのを助けた。王になってから姿を見た者は少なく、千人の女の召使いが仕え、ただ一人の男が食事を運び、言葉を取り次いだ。宮殿には物見の高い建物があり、柵がめぐらされ、兵が守っていた。

239年(いま伝わる本文では238年だが、239年の誤りとする説が有力である)、卑弥呼は大夫の難升米らを、朝鮮半島にあった魏の出先、帯方郡(公孫氏の帯方郡)へ送った。使いは魏の都洛陽まで行き、男女の奴隷と布を献じた(卑弥呼の遣使)。魏の皇帝は卑弥呼を「親魏倭王」とし、紫の組紐の付いた金印を授け、銅鏡100枚や絹織物などを贈った。魏は呉と争っており、その背後にある東の海の国を味方に付けたかったのではないかと考えられている。その後も、使いは何度か行き来した。
247年頃、邪馬台国の南にあった狗奴国の男の王と、もとから仲が悪く、戦いになった。卑弥呼が帯方郡に訴えると、魏は役人を送って詔書と軍旗を届け、争いをやめるよう諭した。その直後に、卑弥呼は死んだ。死んだ年は書かれていないが、記事の流れから248年頃とされる。
死後、径が百余歩の大きな塚が作られ、奴婢100人余りが一緒に葬られたと記される。その後、男の王が立ったが国は治まらず、殺し合いで千人余りが死んだ。そこで卑弥呼の一族の13歳の少女、台与(壱与とも書く)を王に立て、ようやく国が落ち着いたという。
日本側の歴史書には、卑弥呼の名は出てこない。8世紀の『日本書紀』は、神功皇后の巻に魏志の倭の女王の記事を注として引いており、編者たちが卑弥呼を神功皇后と重ね合わせていたことが分かる。だが神功皇后の物語は伝説の色が濃く、年代も合わない。古くから、卑弥呼に当たる人物を記紀の中に探す試みが続いてきたが、決め手は無い。
邪馬台国がどこにあったのかは、江戸時代から論争が続いている。魏志に書かれた帯方郡からの道のりを、方角と距離のとおりにたどると、九州を突き抜けて南の海の上に出てしまう。どこかで方角か距離を読み替えなければならず、どう読み替えるかで、奈良盆地を中心とする畿内か、北部九州かに分かれる。江戸時代の新井白石や本居宣長以来、学者たちが論じ、明治の終わりには東京と京都の大学の学者が畿内説と九州説に分かれて論争した。
考古学の発掘が進むと、議論は遺跡と遺物に移った。奈良県の纒向遺跡では3世紀の大きな建物の跡が見つかり、近くの箸墓古墳を卑弥呼の墓とみる研究者もいる。築かれた年代を3世紀の中ごろとする測定もあるが、異論も多い。各地の古墳から出る三角縁神獣鏡を、魏から贈られた鏡とみる説もあるが、中国本土で一枚も見つかっていないことから、日本で作られたものとする反論がある。一方、九州には佐賀県の吉野ヶ里遺跡のように、物見やぐらと柵を持つ大きな集落の跡もある。金印はまだ見つかっていない。

日本の歴史で、名前の分かる最初の人物の一人が、外国の記録にしか存在しない。その記録も、海を隔てた国の役人の聞き書きと、使節の報告をもとにしたものである。卑弥呼の姿は、中国の皇帝の側から見た倭の女王として、私たちに届いている。266年に倭の使いが晋に来たという記録を最後に、倭の名は中国の史書から長く消える。再び現れるのは、5世紀の倭の五王の時代である。